或る浪漫派の死
生きる。
死ぬ。
生きる。
死ぬ。
生きる。
死ぬ。
FRANK LEDERは、浪漫主義派のデザイナーである。文明の進歩や合理主義に対して、あくまでも主観や感受性を重視したクリエイションで彼は拮抗しようとする。シーズンごとに設定されるテーマ性を帯びた御伽話には木こりや吟遊詩人、大工、肉屋、詐欺師、囚人など、清く正しいホワイト現代社会の中で忘れ去られてしまいそうな人々が主人公として度々登場する。 19世紀から20世紀前半にかけてたしかにそこにあったはずのもの、しかし今では誰も思い出さないようなもの。特定の事象がすべての人の記憶から消え去るとき。それは、その存在の死を意味する。
とりわけ、過ぎ去った時代の中で中心的な役割を果たした美しい古典を賛美するのではなく、路傍の石のように忘れ去られていくいびつな存在の死に対して、FRANK LEDERは強くフォーカスする。
こんにちは、鶴田です。
ロマンチック、という言葉について考えるとき、僕はしばしば死について考える。目の前にある冷めた現実を離れ、妄想を膨らませ、情緒に浸り、過去のある時代・人物について考えるとき(たとえそれが架空の世界だとしても)そこには何世代にも渡る歴史の積み重ね、つまり「生と死」の繰り返しが横たわっている。浪漫はいつも、死の隣り合わせにあると言ってよい。ヒンターランドへ続く獣道を掘り起こせば、野垂れ死に、行き倒れ、名もなき人々の屍が累々と姿を現すことだろう。
過去に起こった死について考える。それはいかにも消極的な行為に思えるが、哲学者・池田晶子の言を借りれば「この世に100%は存在しない。絶対確実100%は、我々の死亡率だけである」。
すべての人が必ず死ぬ、と考えるならばもう一つ。それは「すべての人は生まれてきた」という対の事実。過去を振り返り礼賛するだけの懐古趣味ではなく、死の中に生を見つけることができるのだとしたら、失われた大地に想いを馳せることはその地を得た人々の生き様について考えることでもある。そういった意味で、FRANK LEDERの世界観とは単なるノスタルジーにまみれた美辞麗句ではない。もしもFRANK LEDERが単なる古典主義者であったとしたら、彼は今頃とっくにファッションデザイナーいう職を辞していることだろう。
ほんの70~80年前まで、大人の男性たるもの外出するときは必ず帽子をかぶって出かけるような生き物であったが、いまやラビットファーのフェルトハットは古典主義の男性を除いて、誰も身に着けることのない大げさなものに成り下がってしまった。僕から見ると、それは過去に起こった死についてのみ考える行為に思える。失われた大地について延々と語り、それを肴に酒を飲み、過去の死を再び模倣するような古典主義に未来はない。だからこそ、古典としてのフェルトハットは二度と蘇らず、只々その死を深めていくことになる。
しかし、見よ。
年長者たちが垂れ流す能書きを意にも介さず、目の前にある生と格闘する若者にとって、ほとんど初めて相対するFRANK LEDERのフェルトハットとは「ジェントルマンの必需品」や「1861年から続く老舗帽子屋への憧憬」でもなければ、ましてや「セレブリティ発火で5年前に大流行したロングブリムハットの残骸」でもない。そして、これはもはや年齢や性別の問題ですらない。
「浪漫」とは「夢や冒険に心を躍らせる甘美で感傷的な気分」のみを指す言葉では決してないと思う。 僕にとっての「浪漫」とは「心の赴くままにまかせる」ことである。
「浪(ろう・なみ)」
「漫(まん・みだりに・そぞろに)」
すなわち、さすらうこと。 過去の他人に自分を重ね合わせるのではなく、今の自分を別の世界へ連れていくこと。心を自在に動かすこと。
閉じこもることではなく、出ていくこと。
死ぬ。
生きる。
死ぬ。
生きる。
死ぬ。
生きる。
死ぬ。
生きる。
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鶴田 啓
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