column

ねじ13

 

先日、友人が運営する飯田橋のアートギャラリー「roll」へと足を運んだ。写真家・木村和平氏の写真展『石と桃』が開催されており、僕は友人への差し入れとしてコンビニで買ったハッピーターンを握りしめて地下鉄C1出口への階段を上った。

 会期初日ということもあり会場にはすでに3~4組ほどの来客。木村氏も在廊していたので、しばらく作家本人と話し込んだ。聞けば木村氏は幼少期から「不思議の国のアリス症候群」という症状を抱えて生きてきたという。Wikipediaによると、この症状は「知覚された外界のものの大きさや自分の体の大きさが通常とは異なって感じられることを主症状とし、様々な主観的なイメージの変容を引き起こす症候群」とある。例えば蚊が数十㎝のサイズに感じられたり、逆に子供から見た母親が自分よりも小さくなったような気がしたりするらしい。サイズの比率が歪むだけでなく、色覚についても異常を感じたり(人の顔が緑色に見える、など)、遠近感が不安定になったり、尖ったものと柔らかいものの区別が曖昧にになったりと、その症状は実に様々であるようだ。木村氏自身の幼少期からの体験や違和感をテーマに今回の個展『石と桃』は会場内の構成を緻密に組んであり、展示方法も含めて非常に興味深い内容だった。

 そういえば数日前に自宅でテレビを見ていたらCMで辻井伸行氏がピアノを弾いていた。横にいた6歳の息子が「この人、目、どうしたの?」と言うので、僕は「この人は目が見えないんだよ」と答えた。「ひとつ?え、ふたつとも見えないの?珍しいね」と息子。僕は「そうだね、でも○○(息子の名前)は目が見えるけど、ピアノが弾けないでしょ?辻井君は目が見えないけど、ピアノがとても上手に弾けるね」と返した。

 木村氏は 「不思議の国のアリス症候群」 の症状のひとつとして、実際には存在しない強い蛍光色が視界に侵入してくることがあると言う。今回の展示『石と桃』では、モノクロームの作品にシルクスクリーンで蛍光ピンクを差し込んだものがあり、僕が「例えば、このピンクのような色が突然見えるということですか?」と尋ねると、木村氏は「この色も、そのひとつです」と答えた。また、現代美術家の草間彌生氏は世界のすべてが無数の水玉で構成されているように見えると語っている。つまり、草間彌生は目に見えるものをそのまま描いていることになるし、木村和平は目に見える光をそのまま撮っていることになる。

 美術館やギャラリーでアートに触れたり素晴らしい音楽に出会ったりすると、目に映る風景や世界がそれまでとはまるで別物に映る、という人がいる。確かにそのような感覚はあるし、アートとはそのようなものだし、僕も過去にそのようなことを書いてきた記憶がある。しかし、それは草間彌生のように風景が水玉の集合体に見えるようになるということを意味しない。むしろ逆であって、つまり「見えなくなる」のである。アートによって新たな視点を付与されればされるほど、見えなくなる。どれだけアーティストになり切って世界を見ようともがいたところで、見えないものは見えないのだ。「彼」や「彼女」には見えたものが「自分」には見えない。見えないということが確信に変わる。体験したものが素晴らしければ素晴らしいほど、自分の目にはそれと同じような風景が見えないことに寂しさを覚え、劣等感を抱き、自らの感受性が乏しいことを呪い、妬む。とりわけ若い頃は、そのような想いに囚われる人もいるだろう。しかしいずれ、この「見えない」ということそのものが自分自身の独自性であるということに気づく。見えない、という独自性。その結果「逆に、彼らには見えなくて自分に見えるものは果たして何だろうか?」と考えることになる。

 自分の想像の中で他人を一括りにすることは容易い。アーティストが見る世界を「普通じゃない」と断じることも容易い。誰もが、自分自身が見てきた風景こそ一番普通だと思って生きているから。しかし「普通じゃない、平凡ではない、独特であるのはむしろ自分の方だった」と自身の独自性を発掘する時にこそアートは機能する。飯田橋の地下鉄へ吸い込まれながら僕は思った。

  少し前にオザケンこと小沢健二が、この心象を的確に五七五で詠んだことがある。「忘れるな 他人の普通は 超異常」と。この場合、言葉の強さとして「超異常」に引っ張られてしまいがちだが、実は最も恐るべきは「普通」という概念の方だったりするのだ。僕から見ると異常な言語感覚を持った他人であるはずのオザケンにとって、他人である僕の普通がそうであるように。





鶴田 啓