贅沢
昨年末から店内にひっそりと並んでいる F.LLI Giacometti のダブルストラップサンダル「FG332」。甲革には大ぶりな竹腑(たけふ) が大胆に配されたクロコダイルが贅沢に使われている。「贅沢」なんて言葉で表現したものの、僕は「ラグジュアリー」という言葉が嫌いだ。
こんにちは、鶴田です。
このサンダルは、まだずいぶんと寒さが厳しかった頃に「ソックスに合わせて面白く履いてみてはどうですか?」なんて、フリッカージャブのような紹介をしたっきりだった。それでも、心優しく大らかなお客さんがまだ寒いうちから何人も買ってくれたりして。
しかし、そこに甘えてばかりもいられない。そろそろ実際にサンダルを履きそうな季節。改めて紹介してみようと思う。
とは言え、実はこの靴について書くことはそれほど多くない。上から見ても、前から見ても、後ろから見てもカッコいいから。逆にそれ以上の説明が何か要りますか??僕らはそれで十分なんですけど?というわけにもいかないので、ちゃんとします、してみます。
となってくると、「クロコダイルが如何にラグジュアリーであるか」を論じる展開になる。なりがち。しかし、僕は「ラグジュアリー」という言葉が嫌い。
さて、八方塞がり。
人にとって「贅沢」とは何か。
必要不可欠の範囲を大きく超えて、金銭や労力を費やすこと。
そんな意味が、なんとなく思い浮かぶ。
対義語は「質素」だろうか。
その意味は「贅沢さや派手さがなく慎ましい」という感じだろう。
必要最低限を大きく超えると「贅沢」。
必要最低限以下であれば「質素」。
あとは、人によって「必要」の程度が変わるということになる。
ある人は「19万の靴なんて贅沢だ」と言う。
ある人は「クロコダイルの靴なんて贅沢だ」と言う。
ある人は「春夏しか履かない靴なんて贅沢だ」と言う。
値段の問題?稀少性の問題?使用頻度やコスパの問題?
パーソナリティを無視し上記のように数値化できる物差しですべてを測ってしまえば、ほとんどの物事は質素を大きく超えて「贅沢」に変わる。僕が「ラグジュアリー」という言葉を嫌うワケは、その言葉がすべてを「値段や稀少性やコスパ」という平坦な数値に集約させてしまうからかもしれない。
「15万のシルク製パジャマを着て、毎日寝ている」
「ビキューナ生地でコートを仕立てた」
「去年、30万の靴を買ったけど、まだ一回も履いていない」
昨年、長崎に住む妹の自宅へ遊びに行った。温泉街を下に見下ろす丘の上に、その家はあった。車で登るのも難儀な急勾配の細い山道を抜けて辿り着くと、僕はあたりを一望した。妹の自宅の庭からは、大きな水平線と青空が見えた。「贅沢だな」と僕は思った。高台の家から毎日通勤するには苦労もあるだろう。青空や水平線もすぐに見慣れてしまうのかもしれない。他人から見ると贅沢なこと。それは、当の本人にとって日常生活の一部だったりすることもあるのだ。 肝心なのは、今、自分がどこにいるのかということ。
もしも、ファッションに心を躍らせ、洋服を選ぶことが楽しくて仕方のない暮らしがあなたにとっての日常であれば、それが贅沢かどうかを決めるのは他人ではない。青空も水平線もクロコダイルのサンダルも、あるいは山道での苦労を伴うものかもしれない。
しかし。
今、自分がどこにいるのかということ。
金額(¥)や稀少性(%)で数値化できないはずのその地点は、自分の心が一番よく知っている。もしも、それを測る物差しがあるのだとしたら、それはある意味での「温度」かもしれない。
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鶴田 啓
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