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ねじ18


いつだったか「古道具坂田」の店主・坂田和寛氏が蒐集したアフリカの腰巻きを100枚近くまとめて展示する、というエキシビジョンを見に行ったことがある。その腰巻きは、アフリカ中央部のコンゴ熱帯雨林に暮らすピグミー族が樹木の皮を剥がし木槌で打つことで繊維と繊維を絡ませて作った「タパ」と呼ばれるものらしい。展示してある「タパ」の一点一点には(動物や昆虫や星など)自然界にあるものをモチーフにした幾何学柄が多様に描き込まれていた。

熱帯雨林の奥深くに住む民族が日常的に使用していた「タパ」だが、これがヨーロッパに伝来した際、現代美術として高く評価されるようになったらしい。美術評論家たちは、この複雑怪奇な柄の連続/不連続に対して難解な分析と解釈を振り回して大いに論じたという。美術の観点から見ると通常では考えられない位置で柄が突然切り替わり、断絶している。2分割や4分割になった柄のコンポジションが、絵画の構成としては極めて異質なものに映ったようだ。

一方で、「タパ」は日本でいうところの「ふんどし」に近い衣類。ピグミー族は「タパ」を二つ折りにして昨日と今日で異なる面を表にして使っている。展示会場内には坂田氏による「評論家は難しいことを言うけれど、実際には昨日と今日でふんどしに違う絵柄を描いて遊んでいただけ。それを広げると柄が断絶して複雑に見えるってことなのにね」という文意の解説があった。

美術に限らず、映画評にしても音楽レビューにしても、世の中に存在するあらゆる評論は「そのジャンルに深く通じた識者が物事の善悪や価値を判断し批評する」という前提の上で、あくまでも「他人の解釈」である。史実や文脈や構造を解きほぐした上で再び繋ぎ合わせ「論」として練り上げた結果、事実とはかけ離れた位置に結論が落ちることだってある。どれだけ客観視に努めたところで、人間は自らの主観を完全に切り落とすことが出来ない生き物だと僕は思っているので、それも当然のことだと言える。一枚の絵を前にして「自分と他人とではこうも解釈が違うのか」と認識する点に評論そのものの面白さがある、と。「タパ」に関して、坂田氏の一刀両断を見るとヨーロッパの美術評論家たちが血眼で論じていたことは壮大な徒労であったと思う向きもあるだろうが、個人的には「難解な論評」も「単純明快な視点」もどちらもあって良いと思っている。それぞれの立場は「物事には必ず理由や因果関係や文脈がある」と「いやいや、考えすぎだよ、意味ないよ」に分かれるのだろうが、どちらにしても根底には「人間とは暇な生き物である」という事実があるような気がする。「生まれて、生きて、死ぬ」というだけではどうにも退屈してしまうのだろう。だからこそ、人はファッションを発明し、音楽を携帯し、酒を飲み、ゲームに興じ、美術に触れる。それはピグミー族がふんどしに絵を描き、評論家がそれについて論じたことも、どちらも同じ意味で「大いなる暇つぶし」であるような気がする。そして、いまこのコラムを読んでくれているあなたも、もれなく暇をつぶしている。勿論、こんなどうでもいいことをダラダラと書いている僕は言わずもがなである。



鶴田 啓