ねじ29

昔から記憶について考える。
10歳の時に暗記したと思われる古典落語「寿限無」の長い長いフルネームや、11歳のときに読んだビクトル・ユーゴーの(というかレ・ミセラブルの、ジャン・バルジャンの墓に刻まれた)四行詩は30年以上経っても何故だかいまだに覚えていたりする、それ。 記憶。
(映画エターナルサンシャインでもそうだったけれど)困ったら消せばよい、というほど単純なものではないし、クリスチャン・ボルタンスキーも塩田千春もゲルハルト・リヒターも、もはやアフリカのマスクも日本語も(場合によっては何世代にも渡る長い年月をかけて)真っ白いキャンバスの上に絵の具を重ねて重ねて形作られるような、それ。記憶。一枚二枚三枚と、重ねられたレイヤーを剥がしていけば、結局根底にある色は同じだったりして。人が真っ白の上に重ねていく色は組み合わせに人それぞれの独自性があるだけで本質的にはそれほど変わらないような気がする。何か特定の出来事を記憶する瞬間、24色入り絵の具の中からどの色を選び、どの色と混ぜて、どのような筆致で重ねていくのか。あるいは、重ねていく途中で嫌になっちゃって真っ白に塗り潰してリセットしようと思っても下地にある積み重ねられた色のレイヤーまでは消し去ることができないので、結局のところ、人は記憶の上に記憶を乗せて続けているにすぎない。記憶の上に記憶を重ねる瞬間、乗せる色の選び方はその時々で自分が置かれている状況や状態によって大きく左右されると言っていい。レ・ミゼラブルの記憶にしたって、現在になって読み返してみればきっと11歳当時とは全く異なる色に感じるのだろうが、それはこの30年の間に僕の中で記憶に記憶を重ね続けてきた結果の意図せぬ改ざんだろう。
「あのとき○○で食べたあのラーメンの味」や「昔、抜群にカッコいいと思ったあの映画」が時間の経過とともに色褪せてしまっていることに気づく、という経験は誰にでもあると思う。それは「実際にその店の味自体が落ちてしまった」のかもしれないし、「年齢を重ねるにしたがって自分の味覚が肥えた」ということもできる。状況や状態のマジックによって過去の記憶が美化されればされるほど、そのギャップは大きい。「なぜ、あの頃はこの味にこんなに美しい色を塗ってしまったのか」と不思議に思うこともあるだろう。過去の記憶は、遠くなればなるほどドラマチックに語られやすい。「若い頃は金がなかったから、毎日ここのラーメンを食っていた、美味かったんだよな~」という記憶も、実際には週二回のペースだったかもしれないし、もしかすると僕がレ・ミゼラブルを読んだのは12歳の頃だったかもしれない。
くるりの楽曲で「ばらの花」というタイトルのものがあるが、サビ部分の「ジンジャーエール買って飲んだ、こんな味だったっけな」というフレーズを指して、又吉直樹は「もはや自由律俳句だ」と言った。変わったのは自分自身なのか、それともジンジャーエールの方なのか。
記憶をその当時のままにパッケージするために百万言を尽くして綿密に記録しようとも、きっとそこには無意識のうちに「捏造」という肉が付いていくことだろうし、それが悪だとは決して思わない。意図する/しないに関わらず、すべての人には状況や状態があるから。
「分かりやすさ」が求められる今の時代に、余白のある最小限の言葉から最大限の想像を膨らませるという行為がどの程度必要とされるのか僕には分からないが、どっちみち記録ベースの記憶から当時のことを正確にトレースすることはなかなか難しいのだろう。評価・評論・分析などは一見すると「客観的な記録」だと思われがちだが、筆者本人の状態や状況を踏まえた「主観的な記憶の集積」だとわきまえながら受け入れる方が僕の性には合っている。実際に、このコラムそのものも「捏造された僕の記憶」の上に成り立っている、砂の城、もしくはジンジャーエールの泡みたいなものだと思う。
鶴田 啓