およそ2か月近く続いた「まん延防止等重点措置」 が都内でも解除された。いろいろな状況が完全に元通りに戻ることなんてことは、現時点で望むべくもないのだけれど、それでも休業していた飲食店がシャッターを上げて久しぶりに営業を再開し始める光景を目の当たりにすると少しだけホッとする。僕の自宅近くに古くからある居酒屋や寿司屋、中華屋など、馴染みの店が閉まっていると、店の前を通るたびに「あの大将、元気かな」という心配が僕の頭をよぎってしまうので、「まん防」が明けて軒先にのれんが出ているのを見ると少しだけ安心するのだ。
ところで、この2年ほどの間にほとんどの飲食店は営業時間の短縮や営業自粛を余儀なくされた。休みの日や仕事帰りにふらりと飲み屋に寄ろうと思っても開いている店がほとんどない。開いていないのは仕方がないし、都の要請に従うことは感染症対策の意味でも彼らが生きていくためにも必要なことである。 いつもの店が開いていない以上、 僕の選択肢は限られてくる。通常時ならば足を踏み入れることのない店ののれんを必然的にくぐることになるのだ。
美味い店で美味い肴をアテにして美味い酒を飲む。僕に言わせれば、そんなことは誰にでもできる芸当である。肝心なのは、マズい店で如何にしてマズ過ぎない肴をアテにしてマズ過ぎない酒を飲むか、である。通常営業時であれば、ネット上の口コミを参考にしたり、それなりに客が入っている人気店を選べば大きくハズすことはないのだが、コロナ禍では競合店のほとんどが休業している為、不人気店がにわか繁盛店に変わっている恐れがある。とはいえ、どうしても今宵この夜、酒が飲みたい。一旦そのモードに入ってしまうと、僕はどこかの酒場に「必ず入店しなければならない」のだ。やむを得ず初めての店でオーダーする場合、観察力と想像力がモノを言う。簡単に言うと「基本的には全メニューがマズいと想定して、その中でマズくなりようがないだろう一品を選ぶ」ということに尽きる。以下、場末の汚い居酒屋に一人で初訪した際の心得。
まず、ドリンク編。第一に、生ビールは避ける。 メニューには「生ビール」と書いてあっても雑酒である可能性があるし、サーバーの洗浄が十分になされていない場合、味や匂いがイカレている恐れがある。ということで、頼むべきは瓶ビール。ラベルを偽造したりでもしない限り、必ずラベルに書いてあるとおりの銘柄のビールが飲める。瓶ビールが無ければ、ホッピー。せんべろ系居酒屋の場合、原液の焼酎自体がロクなもんじゃない可能性が高いけれど、瓶詰めされた「そと」は本物のホッピーなので半分以上は安心である。
次はフード編。まず、周りにいる先客のテーブル上を横目で確認する。大体の場合、誰かしらが刺し盛りを食べているので、その内容を観察する。一品料理であればその量を確かめる。そしてホワイトボードのオススメ、メニュー表といった感じで順次見ていく。
先日初めて入店した薄汚い居酒屋では、隣のオジさんが食べているマグロ刺しを見たところ、ピンク色のういろうを薄切りにしたような物体だったため、刺身類はすべて却下。肉じゃがや煮込み類も危なそうな感じがした。とりあえずホッピーを頼んだ後、無難そうなマカロニサラダを注文したらコンビニで売られているパックを開封しただけのような味がしたので中濃ソースで味変しながら食べた。メニュー表に「合鴨スモーク」の文字が見えたので、間違いなくスーパーで売られているパウチ食品だろうと想像したところ、まったくその通りのものが出てきたので安心して食べた。揚げ物欄に目をやると「メンチカツ」「ハムカツ」「とり天」などがあって、もっとも無難そうなのは「ハムカツ」に思えたが、ハズした上にボリュームがあり過ぎてもイヤなので、すぐ隣に書いてあった「うずらフライ」を頼んだ。うずらの卵の缶詰に衣をつけて揚げただけなので、思った通りの味がした。全然大丈夫だった。隣の客が食べていた「とりかわ串」は輪ゴムを一度溶かした後に四角く固め直して串刺しにしたようなルックスだったので避けた。やはり、危険を察知した店では「極力、人の手が加えられていないもの」を頼むに限る。
それはそうと、この手のマズい店。古くからそこにある割に何故かマズいままであり続けるなんて、ある意味ではスゴイと思う。マズいと気づいていないのか、味を改善する方法が分からないのか、マズいのは知っているけれどそのままでいいと思っているのか。実際に僕の自宅近所にも、そういう店がある。すっぽん料理・大衆割烹の看板を掲げているのだが、10年ほど前に初めて入店したとき、小上がりの畳はボロボロで毛羽が物凄かったし、料理には良いところが無かったし、なによりもハイボールが絶望的にマズかった。が、その店は40年くらい続いているし、まんぼう中も闇営業をしているのか、深夜に前を通るといつも薄明かりが灯った店内からは客の笑い声が漏れていた。僕は初めの一度っきりしか行かなかったが、その店は2年前の緊急事態宣言も切り抜けて現在も普通に営業している。
毛羽畳すっぽん屋もピンク色のういろう屋も店構えを見る限りかなり老舗のはずだが、相変わらずマズい店である。メニューの改良や品質の改善を行った形跡がまるで感じられないほど、現役バリバリで今もマズい。通常、人は向上心を持つ。駄目になることを恐れるし、努力することで他人よりも優位に立ちたがる。マズければ美味しくしようと研究するし、汚ければ綺麗にしようとする。競争に勝とうとする。しかし、これらの店には多分それがない。駄目なままであり続けること。他人に叱られようが、軽んじられようが、低く評価されようが、頑張らない。一種のパンク。ノーフューチャー。坂口安吾「堕落論」。
これらの店に唯一長所があるとすれば、それは「いつでも開いている」ということ。これから先、何度も訪れるだろう時短営業、営業自粛、閉店、不測の事態。いつもの店、美味い店が開いていないときでも、必ず開いているのがマズい店である。なぜか、彼らはしぶといのだ。3億年も昔から地球上に存在するゴキブリのように、必ず生き残る。だからこそ僕らはマズい店で出来るだけマズくない酒を飲む術を身につけなければならない。
世の中的に高く評価されているもの、高級なもの、気が利いたもの、綺麗なもの。それらが仮にすべて無くなってしまった場合、それでもマズいものは生き残る。だからこそ、僕らはそれを楽しむべきだ。価値がないダメな古着を自分のバランス感で楽しんで着られるようになれば、ヴィンテージが枯渇しようが、価格が高騰しようが、僕らは洋服を楽しむことができる。アメリカ製のボディが無くなったからといってピンク色のういろうを食べる羽目になるなんて、そんな二択は真っ平ごめんだ。20年後にファストファッション古着でも洒落ていられる人は、いま既にコロナ禍でも物事を楽しんでいる人のような気がする。
鶴田 啓
ある日、最寄駅前の広場を歩いていたら、うじゃうじゃと20羽程はいるだろう鳩の群れが我先にと争いながら小分けにちぎられたパンの耳を一心不乱についばんでいた。誰かがいつもこのあたりで餌付けしているのだろうか。ふと見ると、その傍に70代半ばくらいに見える二人の爺さんが後ろ手に組んで立っていた。二人とも青色のナイロンジャンパーを揃いで羽織っており、バックプリントされた黄色い文字を見る限り、どうやら彼らは駐車監視員(放置車両確認機関から選任されて違法駐車を取り締まる警察官以外の監視員)のようだ。
爺さんたちは駅前に蔓延る違法駐輪の自転車には目もくれず、餌に群がる鳩たちを眺めながら二人して柔らかな微笑みを浮かべていた。彼らの目には駅前の広場で自らの生存をかけて必死で餌にありつこうとする鳩たちの姿が「可愛い、他愛ない存在」として映るのだろう。それは、2歳の孫がティッシュ箱からティッシュペーパーを無限に取り散らかしている姿を延々と眺める好々爺のような顔つきで、「よしよし、よー食べよるわ、もっと食え食え、元気が一番じゃ」と言わんばかりの大らかな表情であった。地上20㎝くらいの高さで蠢(うごめ)く鳩の本能や生(せい)への執着を遥か上方(地上160~170㎝)から見下ろすその視点はまるで人間の所業を見守る神の目線であるかのように、僕には思えた。例えば長年勤めた会社を定年退職し、現在は地域に貢献する職務に従事しながら悠々自適に老後を暮らす彼らからすると、仲間を押しのけてでも今日の食いぶちにすがりつこうとする鳩たちに食パンを与えることは無邪気な施しの目線であり、それは自らの生死を分かつことのない余裕や余剰から生まれたパンである。
別に僕は「鳩や野良猫に餌をやる人は偽善者だ」と断罪しているわけではない。勿論、自分自身が飲まず食わずの状態であるにもかかわらず、空腹の他人にパンを分け与えることができる人は圧倒的に優しい。しかし、いとも簡単にそれをやってのけることができる人は実際のところかなり少数派だろう。つまり「簡単にできるこっちゃない」。だから、人が見せる優しさとは「自らに危険が及ばない距離からの施し」が殆んどだろうし、人間とは結局のところ、大なり小なりの偽善者であることが本質であるとも思う。溺れる人に向かって陸からロープを投げることと、沈むボート上でひとり分しかない浮き輪を他人に譲ることの間には(昔からよく言われるとおり)大きな隔たりがあるし、「祖父母が孫に優しいのは子育てに対して責任が軽い立場だからである」みたいなことも散々と言われてきた。つまり、優しさの大半は距離感の問題だったりする。だからこそ、駅のホームから転落した人を線路に飛び降りてまで救助する人からは、その距離を一瞬で縮めてしまう善の瞬発力を感じて(僕みたいな人間は)もはや畏れに近い感情を抱いてしまうのだ。
優しさや怒り、つまり感情移入の観点から距離感を視覚的に利用したものに「映画におけるカメラアングル」というものがある。カメラを構える位置が高くなればなるほどその映像は感情が取り払われた客観目線を意味し、低くなればなるほど(つまり被写体の目線に近づけば近づくほど)主観目線になる。クレーンやドローンを使って上空から映し出された映像はほとんど下界を見下ろす神の冷静な目線の様であり、面と向かって話しかけられる等身大のアングルは鑑賞者に当事者意識をもたらす。トリュフォーの『大人は判ってくれない』におけるアントワーヌ・ドワネルの独白シーンや、(おそらくはそれを模したものと思われる)『万引き家族』における安藤サクラの面会シーンが僕らの感情を揺さぶってくるのは、演技そのものが素晴らしいことに加え、カメラアングルに依る部分が実は大きい。是枝監督の作品にはラストシーンを上空からのアングルで締めくくるものが多く、本編中で濃密に描かれた人間ドラマを最後に空中から見下ろすことで、鑑賞者に対して「ところで、あなたはどう思いますか?」というドライな問題提起を投げかけているようにも感じる。
上空から撮影されるキエフ市内への爆撃シーンと、カメラに向かって切実に訴えかけてくるウクライナ市民のインタビュー映像が交互に映し出されるニュースを見ていると、主観と客観が交錯し、混乱した感情が芽生えてくる。戦争による破壊行為や大量の死など、誰も望んではいない。しかしフェイクとリアルが混在した情報がネット上で錯綜し、各国のプロパガンダが応酬し合う心理戦を目の当たりにすると、現代社会の中では現実との距離感を掴むことがなんと難しいのだろうと悲しくなったりもする。ただ一つ言えるのは、今起こっている戦争は現実のものであり、フィクション小説や映画なんかでは決してない、ということだ。ウクライナ市民やロシア兵を、自分にとってかけがえのない近親者に置き換え、想像してみた時、僕らの瞳に映るのは果たしてどのような光景だろうか。
ジョン・レノンが「想像してごらん」と歌ったあの曲が今も世界中で人々の心を動かし続けているのは「I hope someday you’ll join us」という歌詞の一節に込められた「わたし」「あなた」「わたしたち」という三つのワードが、平和という壮大なテーマのカメラアングルを一気に当事者(僕ら)の高さまで引き下ろしたからかもしれない、なんてことを思いながら僕は鼠色をした鳩の群れを眺めていた。
鶴田 啓
4年ほど前、新宿で開催されていた浅井健一氏の個展『宇宙の匂い』へと足を運んだ。同名タイトル詩集の出版記念を兼ねた展示だったと思う。 1991年にデビューした伝説的バンドBLANKEY JET CITYをはじめ、SHERBETS、AJICOなどの音楽を通じて氏の世界観に触れてきた僕は『宇宙の匂い』というタイトルに対して特別な違和感を感じないまま瞬間的に受け入れてしまったが、よくよく考えてみるとそもそも宇宙に匂いなんてあるのだろうか?
お店に来てくれたことのあるお客さんはご存じのことと思うが、MANHOLEの店内にも匂いがある。初めてのお客さんに「わぁ、いい香りですね」と言われることもしばしばだが、毎日働いている僕ら自身はもはやこの香りに対して無自覚になってしまっている。もっとも、しばらく時間を空けてしまえば、慣れてしまった嗅覚を再び刺激する香りに戻るのであろうが。
「宇宙の匂い」について僕が4年ぶりに考えることになったのは、先日、柿ピーを食べながら家でビールを飲んでいた時のこと。小分けにされた菓子袋の裏側に書いてある豆知識みたいなものをぼんやり読むともなく読んでいた僕の目に飛び込んできたのは「宇宙にも匂いがある」というタイトルだった。その小話によると「空気がない宇宙空間にも匂いが存在する」という。勿論、直接匂いを嗅ぐことはできないのだが、宇宙飛行士が船外活動を済ませて宇宙ステーションに戻ってくると、宇宙服や機材には「宇宙の匂い」が染みついているらしい。その匂いは(地球上で言うところの)「溶接時に出る煙の匂い」や「焼けたステーキと金属の匂い」に近い感じらしく、僕は目の前にあるビールと柿ピーの匂いに鼻腔をくすぐられながら、遥か上空に広がる宇宙空間の匂いに想像を飛ばされてしまった。
そういえば、詩集『宇宙の匂い』の表紙は愛車・サリンジャーにまたがった浅井氏の写真で飾られており、改めて見てみると大胆にカスタマイズされた「YAMAHA XS250」という名の鉄塊は、どことなく「鉄の匂い、煙の匂い、血の匂い」を連想させるものに思えた。浅井氏がNASAの宇宙飛行士の体験談を知っていたのかどうかは定かでないが、この詩集のタイトルと表紙デザインは結果的にイメージがぴたりと一致していたことになる。
「2022年2月の或る夜、自宅でビールを飲んでいた僕が柿ピーの袋に書かれた小話を読み、宇宙を想像しながら4年前の記憶の糸を手繰り寄せてみたところ、ベンジーの詩集から鉄の匂いがした」という一連の流れには、ちょっとした時空の歪みみたいなものを感じる。例えば数年後、久しぶりにMANHOLEを訪れて店内の匂いを嗅いだ人は何についてイメージを膨らませ、どのようなことを思い出すだろうか。嗅覚が記憶や想像力を掻き立てる瞬間、そこにはもしかすると相対性理論を超えるほど壮大なトリップが用意されているかもしれない。脈絡がないはずのもの同士で、世界はねじれながら繋がっている。
鶴田 啓
最近、マッサージ店をよく利用する。お店で洋服を売るという僕たちの仕事は「立ち仕事」なので一日の終わりになると脚や腰、肩などがバキバキに凝っている。以前はほとんど利用することのなかった整体・マッサージに足繫く(最近ではひと月に二、三度)通うようになったのは、自分の場合は年齢のせいもあるのだろうが、そのマッサージ店がいつもそれなりに混雑しているところを見ると「世の中、みんなけっこう疲れているんだな」と、思ってしまう。
しばらく前から「今はメンテナンスの時代である」という言葉を聞くようになった。これまでのようなペースで生産・消費することについて考え直し、既にあるモノ・持っているモノにメンテナンスを入れて生き返らせる、ということ。例えば、モノが売れない時代において「アンティークウォッチ」や「本格靴」の需要が相対的に高まってきたことは「定期的にメンテナンスを入れて長く使う」という考えの普及を意味する。住宅のリノベーションブームも同様。新しく作るのではなく、作り直す、修理して使い直す。サウナやマッサージも、言わば肉体や精神に対するメンテナンスなので、現代は地球も人間も疲弊している時代なのだろう。
人類にとっての負荷をできるだけ減らす、一度負荷をかけてしまったものはメンテナンスで回復させる。負荷になりそうなものはあらかじめ排除する。こうして魔女狩りや粛清を繰り返していくと、いずれ酒もタバコもポテチも炭酸飲料もエロ本もコンビニから姿を消し、完全に漂白されたホワイト社会が完成するのだろうか。
確かにファッションや自動車産業は地球に悪い。アート作品だって、ちょっと見方を変えれば「何の役にも立たない粗大ゴミ」である。映画や音楽だって「最低限の衣食住からはみ出す存在」だと認識してしまえば、フィルムやレコードはこれ以上作る必要がない。健康や環境に悪いとされる負荷(マイナス)を徹底的に排除していけば、諸刃の剣で他のなにか(文化的なプラス)を失ってしまうこともありえる。勿論、それほど極端なことにはならないだろうが、やっぱり人間は「体に悪いと分かっていても、ポテチが美味いと感じる生き物」である。仕事で疲れ果てた後に、ポテチを食べながら飲むビールなんて最高に美味いじゃないか。毒を以て毒を制すことだってあっていい。
できる限りの負荷を排除して、マッサージ台の上でゴリゴリと背中を揉みほぐされながら「これで元気になったとして、明日から何を楽しみに生きていくんだっけ?」と疑問に思ったとき、そこから立ち上がるためのモチベーションは何から貰えばいいのだろうか。疲れを癒すだけでは、人は生きていけない。解毒だけでも生きていけない。負荷を軽減することが目的になり、生きる目的を失ってしまわないためのバランス感覚。などというと、それは洋服屋のポジショントークに聞こえるかもしれないが、それでもやっぱり僕は「ファッションを楽しむこと」が何かの原動力になっている人間である。だからこそ、むしろ嫌悪するのはサスティナブルやSDGSを謳った商品がセールでもまだ余るくらい大量に作られている光景だったりする。それこそが、健康食品の顔をした毒物である。ポテチや炭酸飲料の方がまだいい顔してると思う。
鶴田 啓