もう、かれこれ6~7年くらいの間、僕が通い続けている1軒の居酒屋。いつも1階のカウンター席にひとりで座るんだけど、通い始めて3年が経つ頃から焼き場を取り仕切る「藤田さん」という60代の大将に少しづつ話しかけられるようになってきた。基本的には静かに飲んでいる僕も藤田さんに話しかけられると普通に受け答えをするが、15席が1列に並んだカウンターではどのお客も1人飲みを静かに楽しんでいるので、会話の尺は周りの空間を邪魔しないさっぱりとした最低限のものになる。いつからか、その藤田さんが僕にメニューをおすすめをしてくれるようになった。 この店は「やきとん屋」なので、初めのころは僕も普通に「はつ」や「かしら」「ねぎま」「つくね」などを頼んでいた。藤田さんは焼き場担当。メインメニューの「やきとん」をはじめ、「焼き魚」や「焼きおにぎり」を焼く係だ。何年も通い続けるうちに僕はいつの間にか、藤田さんを活躍させたいと思うようになっており、「冷奴」と「アジ南蛮」だけでチューハイが飲めそうな日も必ず焼き物を一品は頼むことにしていた。ある日「今日は肉よりも魚が食べたいな」と思ったので、串ものの代わりに焼き魚を頼んでみたところ、藤田さんがちょっと嬉しそうな顔をしたように見えたので、 それからというもの、なんとなく僕は焼き魚をオーダーする頻度を増やすことにした。「サバ焼きください」「塩さんま焼きください」「赤魚粕漬けください」「アジ開きください」それを繰り返し続けた結果、今では入店して着席すると同時に「今日は何焼く?」と藤田さんからカウンター越しに聞かれるようになってしまっている。最近は「今日は何焼く?」と聞かれて「さんまにします」と返すと「え~~?ほっけでしょ~」と言われるので「じゃあ、ほっけでおねがいします」というくだりまで付いてくるようになった。「主体性がないなぁ」と笑われるので「僕は藤田さんのおすすめが食べたいです」と言うと、嬉しそうに魚を焼いてくれる。その日に来るかどうか分からない僕のことを考えながら「今日、あいつが来たらは何を焼いてあげたいか」なんてことまで考えるらしい。こうなると、僕の方も益々、何でもよくなってくる。 藤田さんは北海道出身で、写真家になることを夢見て上京したらしい。専門学校に通いながら写真を撮り続けていたがフィルム代が高くて食っていけず、知り合いに頼まれて飲食店を手伝っているうちに、気づいたら40年近くもの間、やきとんを焼き続けているらしい。僕は今もこの店に足繫く通っているが、はっきり言って食べたいものなんて何もない。ただ、藤田さんが焼き魚をおすすめしてくれることが好きで、今日も吸い込まれるように赤いのれんをくぐっている。 鶴田 啓
時代は繰り返す。 いまさらそんなことを言われなくても、みんながそう思っている。みんながそう思っている中で、比較的そう思っていないのは10代~20代前半の「若い世代」だ。それは当たり前か。二、三周目ではなく、今が一周目の真っ只中なのだから。すべてが新しく、目に映る。結局のところ「これは新しい!カッコいい!」と素直に興奮できる感覚こそが圧倒的に強く、純度が高い。 僕は今、40代の半ばに差し掛かり、もしも流行が本当に20年単位で繰り返す(個人的にそうは思っていないが)のだとしたら、今は三周目に突入したあたりにいることになる。 この数年で聞くようになった「Y2K」というワード。「Year 2000」を意味するこの言葉の実態は、2000年代前半ムードのリバイバルを指すらしい。主役はZ世代、すなわち1990年代中盤から2010年代初頭に生まれ、物心つく前からインターネットが身の周りに存在したデジタルネイティブの世代。彼らにとっては1990年代さえもが、リアルタイムでは知らない遠い過去。超ミニ丈のスカートや、ローライズで穿くボトムス、ヘソが出るくらい短い着丈のコンパクトなトップスは20年前の既出ワードだが、Z世代にとってそれらは「完全無欠の新しいもの」に見えるだろう。一方で、当時をリアルタイムで知る世代からすると「2000年代前半ファッションとY2Kは微妙に事実と食い違う」と感じるので、多少は懐かしさを覚えながらも、ある意味では僕にとっても実際に新しいのだ。現代的な解釈として。いくらリバイバルとは言え、時代が20年分は違うのだから完璧にトレースできないのは当たり前のこと。例えばMIU MIUの2022年春夏コレクションを見ると、「Y2K」のニュアンスを存分に感じられるのだが、当時をリアルタイムで知る僕から見ても新鮮な気持ちに心が躍る。 繰り返される中で、生じる微妙なズレ。例えば「Y2K」ファッションの代表アイテムのひとつである「極端に着丈が短いトップス」は「ヘソの上」というよりも、もはや「バストのすぐ下」というくらい短い。超短丈のリブニットやタンクトップにバギーデニムや軍パンなどボリュームのあるボトムスを合わせる感覚、これは90年代リアルタイムの僕にとって「CREEP」のMVで踊るTLCに思える。このバランスはTLCをコピーした沖縄アクターズスクール周辺のアイドルたちによって日本のお茶の間にまで持ち込まれた。しかし、それは1995年頃の話で2000年にはまだまだ遠い。逆に、90’sリバイバルが叫ばれた10年前に僕が目の当たりにしたファッションの中には、むしろ1980年代のバランスに近いものが数多く見られたし、そもそも10年単位で時代を区切ること自体に無理があるのだと僕は思う、思ってきた。ひと口に「60’s」と言っても、1960年と1969年では時代のムードは全く違っていたはずだ。1970年代ファッションを基調とした「レトロ」というワードの中には60’s調のものが多く含まれているし、後世の人間が一括りにする過去のディケイドはいかにも曖昧なものである。だからこそ、まだ救われているような気もする。すべてが秤にかけられたように正確であれば、そこに創造性が働く余地はなく、さぞかし息苦しいことだろう。 それでも、懲りずに人類は10年単位で新たなる世代に名前をつける。結果的に、意図しない形でオリジナルの定型からズレ続けていくのだ。それは、名前を付ける側の人間が「いま目の前で起こっているムーブメント」の外側に立っているからであり、そもそも渦中にいる本人達は自分の名前を「〇〇系」なんて他人と一括りに呼んで欲しいわけがないだろう。他人に与えられた「PUNK」という名前をジョニー・ロットンが最も正しく使った瞬間は、ピストルズの解散と共にジャマイカへ飛んだ彼が吐き捨てた「PUNK is dead」という捨て台詞の中にこそ存在する。つまり「Y2K」と言われて「Y2K」らしく振舞おうとする人間は、そもそも世代に関係なく「Y2K」の外側にいる人間であるという逆説。 ところでZ世代とはY世代(=ミレニアル世代)に続くことから、その名が付いているらしい。その前にはジェネレーションX(つまり僕らの世代、1970~80年代生まれ)も存在した。XYZで終了するかと思いきや、更にその次は2020年代生まれに対してα(アルファ)世代という呼称まで先回りして用意されているという。どれだけ他人の世代に名前を付けるのが好きなんだよ、という感じもするが…どっちみち時代は繰り返すし、その都度、人のことを総括する暇があったら自分のことをやったほうがいい。少なくとも、自分の名前くらいは目の前にいる人と呼び合いたいものだ。 鶴田 啓
「今日の晩飯、作るのも考えるのもメンドクサイなぁ」と思いながら、昼酒を飲んでいたある日の夕方。「弁当でもテキトーに買って帰ればいいか」とブツクサ言いながら僕はデパ地下へ続くエスカレーターに乗った。なんとなく崎陽軒のブースに近づき、家族の分も含めて「シウマイ弁当を4つ」と言いかけた僕はカウンター上を見てぎょっとした。シウマイ弁当はおろか、すべての弁当に「入荷待ち」の札が貼ってあるのだ。弁当が全種類品切れって、一体どういうこと?別に閉店際の時間帯でもないし、頭の中ではすでに「硬めに炊かれた俵型ごはんとシウマイを交互に食べ、その合間に玉子焼きやかまぼこでビールを飲み、終盤はあのネッチリとしたあんずで口を直し、最後に一つだけ残しておいたシウマイで〆る」ことをイメージしていただけにショックは大きかった。とはいえ、無いものは仕方がないので15個入りの「昔ながらのシウマイ」をふた箱買うことにしたが、僕が会計をしている間にも、2~3組のおばさまたちが「あらっ、お弁当ナイの?」「いつ入荷するの?」と騒いでいた。 「昔ながらのシウマイ」ふた箱をぶら下げて帰宅した後、妻にその話をしたところ、どうやら少し前にテレビで崎陽軒が紹介されたらしく、その影響で弁当類が品切れになっているらしい。「いつでもあるはずのものなのにねぇ」と妻は言った。そういえばしばらく前にマックの店頭でフライドポテトのM・Lサイズが消えたと話題になったことがあった。コロナや悪天候による物流網の混乱が原因とされていたと思う。いつでもそこにあるはずのもの。それはきっかけさえあれば、簡単に目の前から姿を消してしまう。 ある時期まではグローバル化の名のもとに、物流と情報網を駆使すれば世界中から「安く、大量に、安定的に」モノを調達することができると考えられていた。しかし、現在ではコロナ禍や戦禍によりその供給が必ずしも永続的に保証されているわけではないと感じる人も多いだろう。食品に限らず、衣類やレザーシューズなどのファッションアイテムも例外ではない。「昔は大量に作ることができたもの」「10年前とは値段が大幅に変わったもの」「質が変化したもの」など、ありとあらゆるモノに対して同じことが言える。僕が10代を過ごした1990年代まではアメリカ製のリーバイスやコンバースなんて「いつでも、どこにでもあるはずのもの」だった。 もはやこれから先の時代に、質や値段が確実に担保されているものなど無いのかもしれない。待っているだけではやってこない未来。よく食べている牛丼が来週には980円まで値上がりするかもしれない。販売中止になっているかもしれない。これは、必ずしも「未来は当てにならないから刹那的に生きた方がいい」と言っているわけではないが、ただ目の前にあるモノを無条件に信じる瞬間もあっていい。もっといいものがあるんじゃないかと探し続けている間に、「現在」は形を変えてどこかへ逃げ去ってしまうかもしれないから。 鶴田 啓
いつだったか「古道具坂田」の店主・坂田和寛氏が蒐集したアフリカの腰巻きを100枚近くまとめて展示する、というエキシビジョンを見に行ったことがある。その腰巻きは、アフリカ中央部のコンゴ熱帯雨林に暮らすピグミー族が樹木の皮を剥がし木槌で打つことで繊維と繊維を絡ませて作った「タパ」と呼ばれるものらしい。展示してある「タパ」の一点一点には(動物や昆虫や星など)自然界にあるものをモチーフにした幾何学柄が多様に描き込まれていた。 熱帯雨林の奥深くに住む民族が日常的に使用していた「タパ」だが、これがヨーロッパに伝来した際、現代美術として高く評価されるようになったらしい。美術評論家たちは、この複雑怪奇な柄の連続/不連続に対して難解な分析と解釈を振り回して大いに論じたという。美術の観点から見ると通常では考えられない位置で柄が突然切り替わり、断絶している。2分割や4分割になった柄のコンポジションが、絵画の構成としては極めて異質なものに映ったようだ。 一方で、「タパ」は日本でいうところの「ふんどし」に近い衣類。ピグミー族は「タパ」を二つ折りにして昨日と今日で異なる面を表にして使っている。展示会場内には坂田氏による「評論家は難しいことを言うけれど、実際には昨日と今日でふんどしに違う絵柄を描いて遊んでいただけ。それを広げると柄が断絶して複雑に見えるってことなのにね」という文意の解説があった。 美術に限らず、映画評にしても音楽レビューにしても、世の中に存在するあらゆる評論は「そのジャンルに深く通じた識者が物事の善悪や価値を判断し批評する」という前提の上で、あくまでも「他人の解釈」である。史実や文脈や構造を解きほぐした上で再び繋ぎ合わせ「論」として練り上げた結果、事実とはかけ離れた位置に結論が落ちることだってある。どれだけ客観視に努めたところで、人間は自らの主観を完全に切り落とすことが出来ない生き物だと僕は思っているので、それも当然のことだと言える。一枚の絵を前にして「自分と他人とではこうも解釈が違うのか」と認識する点に評論そのものの面白さがある、と。「タパ」に関して、坂田氏の一刀両断を見るとヨーロッパの美術評論家たちが血眼で論じていたことは壮大な徒労であったと思う向きもあるだろうが、個人的には「難解な論評」も「単純明快な視点」もどちらもあって良いと思っている。それぞれの立場は「物事には必ず理由や因果関係や文脈がある」と「いやいや、考えすぎだよ、意味ないよ」に分かれるのだろうが、どちらにしても根底には「人間とは暇な生き物である」という事実があるような気がする。「生まれて、生きて、死ぬ」というだけではどうにも退屈してしまうのだろう。だからこそ、人はファッションを発明し、音楽を携帯し、酒を飲み、ゲームに興じ、美術に触れる。それはピグミー族がふんどしに絵を描き、評論家がそれについて論じたことも、どちらも同じ意味で「大いなる暇つぶし」であるような気がする。そして、いまこのコラムを読んでくれているあなたも、もれなく暇をつぶしている。勿論、こんなどうでもいいことをダラダラと書いている僕は言わずもがなである。
鶴田 啓
「マンネリ」という言葉は、しばしば「退屈」に繋がるネガティブな言葉として使われることが多い。「単調でワンパターン」「模倣ばかり、独創性がない」「使い古されていて、新鮮味がない」など、同じことを繰り返す中で失われていく事象。それを避けるために、人々は「脱・マンネリ化」を掲げながら、日々新しいことにチャレンジしていく。 一方、「マンネリ」という言葉の語源について検索すると、以下のような説明に行き当たる。 「マニエリスム(伊: Manierismo ; 仏: Maniérisme ; 英: Mannerism)とは、ルネサンス後期の美術で、イタリアを中心にして見られる傾向を指す言葉である。マンネリズムの語源。美術史の区分としては、盛期ルネサンスとバロックの合間にあたる。イタリア語の『マニエラ(maniera:手法・様式)』に由来する言葉である。ヴァザーリはこれに「自然を凌駕する行動の芸術的手法」という意味を与えた」(Wikipediaより) 僕は無学なので即座には理解しかねる内容だが、要するに「普遍的な美の存在を前提とした上で、最も美しいもの同士を繋ぎ合わせて可能な限りの美を作り上げる古典的様式」、つまりミケランジェロやレオナルド・ダ・ヴィンチらの作品をイメージすればよいのだろうか。細部まで緻密に計算し尽くし、黄金比の安定感を利用した上で作り出されるものは芸術のみならず、建築やファッションにも通ずるものがある。 僕は洋服屋なので、ファッションについてのみしか語ることができないが、クラシックなスーツスタイルなどはマニエリスムの流れからくる洋服の典型だと思える。全体のシルエットや素材感、カラーリングなど、古来から人々が安定的に美しいと思う組み合わせ同士を「ジャケット、パンツ、シャツ、ネクタイ、ソックス、ポケットスクエア、シューズ」といった最小限のフォーマットに落とし込むことで、最大限の美に繋げていこうとする様式であるからだ。すなわち、正解と不正解が存在する世界。ミリ単位で加えられた修正を積み重ねていくことで、最も美しい襟型やラペルの返りやプロポーションを完成させていく。素材感や配色、ディテール本来の意味や由来に目を凝らし、親和性が高いもの同士の相性を信じ、ひたすらに完成美を追求していく。そう、つまり、ある瞬間に完成形が待ち受けているということだ。最も美しい組み合わせを編み出した後は、それを繰り返し、新しい世俗的なものには目もくれず、より強固なものに圧縮していく。 僕は洋服屋である以上にファッション屋でもあるので、完成する前に壊したくなってしまう俗物だ。それでいながら、毎朝鏡の前でジャケットを着て、シャツに袖を通し、ネクタイを締める。マンネリに陥らないように、いつかの過去と同じ組み合わせを二度としないように心掛けている。我ながら何をやっているんだか分からなくなる時もあるが、古典的なフォーマットの上で完成美を破壊しようとしているのか。もう何千パターンとシャツ+タイの組み合わせを試し続けているので、少なくともワンパターンで満足できるような人間ではないのだろう。自ら縛り上げた世界の中でもがきながらも、安住の地は求めない。 学生時代に読んだ本、丘沢静也著「マンネリズムのすすめ」(平凡社)には「 マンネリズムは無駄なエネルギーを使わない、力まない、肩もこらない。 日々の暮らしは繰り返しが基本なので、良いマンネリは無駄なエネルギーを使わない成熟した生き方である」といった内容が記されていたが…。さて、僕のようにいつまでも成熟や完成と縁遠い生き方をする人間は、果たしてどのように進んでいくのだろうか。そんなことをぼんやりと考えながらも、明日の朝になれば僕はやっぱり鏡の前でシャツに袖を通し、ネクタイを締めるのだろう。ふと、思ったが、僕が立川流の落語を好きなのは、そんなところに理由があるような気がした。 鶴田 啓