column

ねじ22

 

 おつまみに赤いウインナー。

 昭和生まれの人ならわかると思うが、今からウン十年前、僕の子供時代に粗挽きウインナーがスーパーに並び始め、初めて食べた時は皮がパリッとハジけて中から肉汁がジュワっと溢れ出してくる感じが確かに衝撃的な味と食感、それはまるで革命のようで「ミスター味っ子」の味皇様ならば口から光線や小宇宙を吐き出しながら「うー・まー・いー・ぞぉぉぉぉっ!」と絶叫&絶賛すること間違いなし、小学生の僕も負けじと「なんじゃこりゃ?ウメーウメー!ブラボー!ハラショー!トレビアン! 好吃 !」とハナ垂らしながら粗挽きウインナーを貪り食ったんだけど、それまで日本のウインナーは赤くてなんぼ、ボソボソの歯ざわりが当たり前で、1985年に発売された皮パリ&ジューシーの元祖的存在である日本ハムの「シャウエッセン」や伊藤ハム「アルトバイエルン」は今食べても十分すぎるくらいウマいけれど、平成生まれの人たちから見れば昭和を揺るがした「皮パリ&ジューシー&粗挽き」なんて全くのデフォルト状態、更に本場ドイツからの輸入物も当たり前、そんな化石みたいな食べ物は令和の時代にわざわざ食わねーよ!って罵声が飛んできそうな気もするけれど、「深夜食堂」では松重豊扮するヤクザの竜も食べていたし、改めて赤いウインナー、色も着いてるし皮はクネクネだし、ちょっと粉っぽいし、抜群に体に悪そうなルックスを見せびらしながら、でもなんかウマい、味がいい、癖になるね、というかそもそも、うどんのコシやスイーツのシットリ感やパンのフワフワなど「いつの間にか当たり前のような顔をして世の中にチヤホヤされている画一的な価値観や物差しを簡単に盲信したくはないなー」とか思うわけで、個人的には洋服で言うところの「シルエットが綺麗」「襟のロールが美しい」なんてスーパー抽象的な文句はどーでもよくて、一方的な美意識の刷り込みはもはや通用しないダイバーシティなんでしょ?とか呟いて、だからこそモノゴトの根本にあるオリジナリティにきちんと目を向ければ、例えば501なんて作業用のガニマタシルエットだからこそ愛嬌があってイーわけで、総合的に見て「やっぱこれだな」って感じがキャラクターとして立っていれば味も服も人も多少ブサイクで構わないのだと思ったりするし、結果としてシルエットが汚い(?)服を着た時にこそ、どのようにバランスを取るかでその人の人間的なサイクが分かるんじゃないか、結局は不味いツマミでどう酒を飲むかだろ、いやちょっと違うか、ともかく改めて赤いウインナー、色も着いてるし皮はクネクネだし、ちょっと粉っぽいし、抜群に体に悪そうなルックスを見せびらしながら、よく見るとパッケージには控えめに「さめてもおいしい」とか書いてあって、つまりハナから局地戦に持ち込むつもりね、わざと冷ましてから食べますか?そーしますか?むしろその方がいーの?って一体何の話だよ、ダラダラと書きやがって、でもなんかウマい、味がいい、癖になるね、あと、単純に見た目がカワイクナイ?とかね。

 おつまみに赤いウインナー。ケチャップも忘れずに。

ねじ21



 もう、かれこれ6~7年くらいの間、僕が通い続けている1軒の居酒屋。いつも1階のカウンター席にひとりで座るんだけど、通い始めて3年が経つ頃から焼き場を取り仕切る「藤田さん」という60代の大将に少しづつ話しかけられるようになってきた。基本的には静かに飲んでいる僕も藤田さんに話しかけられると普通に受け答えをするが、15席が1列に並んだカウンターではどのお客も1人飲みを静かに楽しんでいるので、会話の尺は周りの空間を邪魔しないさっぱりとした最低限のものになる。いつからか、その藤田さんが僕にメニューをおすすめをしてくれるようになった。

 この店は「やきとん屋」なので、初めのころは僕も普通に「はつ」や「かしら」「ねぎま」「つくね」などを頼んでいた。藤田さんは焼き場担当。メインメニューの「やきとん」をはじめ、「焼き魚」や「焼きおにぎり」を焼く係だ。何年も通い続けるうちに僕はいつの間にか、藤田さんを活躍させたいと思うようになっており、「冷奴」と「アジ南蛮」だけでチューハイが飲めそうな日も必ず焼き物を一品は頼むことにしていた。ある日「今日は肉よりも魚が食べたいな」と思ったので、串ものの代わりに焼き魚を頼んでみたところ、藤田さんがちょっと嬉しそうな顔をしたように見えたので、 それからというもの、なんとなく僕は焼き魚をオーダーする頻度を増やすことにした。「サバ焼きください」「塩さんま焼きください」「赤魚粕漬けください」「アジ開きください」それを繰り返し続けた結果、今では入店して着席すると同時に「今日は何焼く?」と藤田さんからカウンター越しに聞かれるようになってしまっている。最近は「今日は何焼く?」と聞かれて「さんまにします」と返すと「え~~?ほっけでしょ~」と言われるので「じゃあ、ほっけでおねがいします」というくだりまで付いてくるようになった。「主体性がないなぁ」と笑われるので「僕は藤田さんのおすすめが食べたいです」と言うと、嬉しそうに魚を焼いてくれる。その日に来るかどうか分からない僕のことを考えながら「今日、あいつが来たらは何を焼いてあげたいか」なんてことまで考えるらしい。こうなると、僕の方も益々、何でもよくなってくる。

 藤田さんは北海道出身で、写真家になることを夢見て上京したらしい。専門学校に通いながら写真を撮り続けていたがフィルム代が高くて食っていけず、知り合いに頼まれて飲食店を手伝っているうちに、気づいたら40年近くもの間、やきとんを焼き続けているらしい。僕は今もこの店に足繫く通っているが、はっきり言って食べたいものなんて何もない。ただ、藤田さんが焼き魚をおすすめしてくれることが好きで、今日も吸い込まれるように赤いのれんをくぐっている。





鶴田 啓
 

 

ねじ20



 時代は繰り返す。

 いまさらそんなことを言われなくても、みんながそう思っている。みんながそう思っている中で、比較的そう思っていないのは10代~20代前半の「若い世代」だ。それは当たり前か。二、三周目ではなく、今が一周目の真っ只中なのだから。すべてが新しく、目に映る。結局のところ「これは新しい!カッコいい!」と素直に興奮できる感覚こそが圧倒的に強く、純度が高い。

 僕は今、40代の半ばに差し掛かり、もしも流行が本当に20年単位で繰り返す(個人的にそうは思っていないが)のだとしたら、今は三周目に突入したあたりにいることになる。

 この数年で聞くようになった「Y2K」というワード。「Year 2000」を意味するこの言葉の実態は、2000年代前半ムードのリバイバルを指すらしい。主役はZ世代、すなわち1990年代中盤から2010年代初頭に生まれ、物心つく前からインターネットが身の周りに存在したデジタルネイティブの世代。彼らにとっては1990年代さえもが、リアルタイムでは知らない遠い過去。超ミニ丈のスカートや、ローライズで穿くボトムス、ヘソが出るくらい短い着丈のコンパクトなトップスは20年前の既出ワードだが、Z世代にとってそれらは「完全無欠の新しいもの」に見えるだろう。一方で、当時をリアルタイムで知る世代からすると「2000年代前半ファッションとY2Kは微妙に事実と食い違う」と感じるので、多少は懐かしさを覚えながらも、ある意味では僕にとっても実際に新しいのだ。現代的な解釈として。いくらリバイバルとは言え、時代が20年分は違うのだから完璧にトレースできないのは当たり前のこと。例えばMIU MIUの2022年春夏コレクションを見ると、「Y2K」のニュアンスを存分に感じられるのだが、当時をリアルタイムで知る僕から見ても新鮮な気持ちに心が躍る。

 繰り返される中で、生じる微妙なズレ。例えば「Y2K」ファッションの代表アイテムのひとつである「極端に着丈が短いトップス」は「ヘソの上」というよりも、もはや「バストのすぐ下」というくらい短い。超短丈のリブニットやタンクトップにバギーデニムや軍パンなどボリュームのあるボトムスを合わせる感覚、これは90年代リアルタイムの僕にとって「CREEP」のMVで踊るTLCに思える。このバランスはTLCをコピーした沖縄アクターズスクール周辺のアイドルたちによって日本のお茶の間にまで持ち込まれた。しかし、それは1995年頃の話で2000年にはまだまだ遠い。逆に、90’sリバイバルが叫ばれた10年前に僕が目の当たりにしたファッションの中には、むしろ1980年代のバランスに近いものが数多く見られたし、そもそも10年単位で時代を区切ること自体に無理があるのだと僕は思う、思ってきた。ひと口に「60’s」と言っても、1960年と1969年では時代のムードは全く違っていたはずだ。1970年代ファッションを基調とした「レトロ」というワードの中には60’s調のものが多く含まれているし、後世の人間が一括りにする過去のディケイドはいかにも曖昧なものである。だからこそ、まだ救われているような気もする。すべてが秤にかけられたように正確であれば、そこに創造性が働く余地はなく、さぞかし息苦しいことだろう。

 それでも、懲りずに人類は10年単位で新たなる世代に名前をつける。結果的に、意図しない形でオリジナルの定型からズレ続けていくのだ。それは、名前を付ける側の人間が「いま目の前で起こっているムーブメント」の外側に立っているからであり、そもそも渦中にいる本人達は自分の名前を「〇〇系」なんて他人と一括りに呼んで欲しいわけがないだろう。他人に与えられた「PUNK」という名前をジョニー・ロットンが最も正しく使った瞬間は、ピストルズの解散と共にジャマイカへ飛んだ彼が吐き捨てた「PUNK is dead」という捨て台詞の中にこそ存在する。つまり「Y2K」と言われて「Y2K」らしく振舞おうとする人間は、そもそも世代に関係なく「Y2K」の外側にいる人間であるという逆説。

 ところでZ世代とはY世代(=ミレニアル世代)に続くことから、その名が付いているらしい。その前にはジェネレーションX(つまり僕らの世代、1970~80年代生まれ)も存在した。XYZで終了するかと思いきや、更にその次は2020年代生まれに対してα(アルファ)世代という呼称まで先回りして用意されているという。どれだけ他人の世代に名前を付けるのが好きなんだよ、という感じもするが…どっちみち時代は繰り返すし、その都度、人のことを総括する暇があったら自分のことをやったほうがいい。少なくとも、自分の名前くらいは目の前にいる人と呼び合いたいものだ。




鶴田 啓

ねじ19

 

 
 「今日の晩飯、作るのも考えるのもメンドクサイなぁ」と思いながら、昼酒を飲んでいたある日の夕方。「弁当でもテキトーに買って帰ればいいか」とブツクサ言いながら僕はデパ地下へ続くエスカレーターに乗った。なんとなく崎陽軒のブースに近づき、家族の分も含めて「シウマイ弁当を4つ」と言いかけた僕はカウンター上を見てぎょっとした。シウマイ弁当はおろか、すべての弁当に「入荷待ち」の札が貼ってあるのだ。弁当が全種類品切れって、一体どういうこと?別に閉店際の時間帯でもないし、頭の中ではすでに「硬めに炊かれた俵型ごはんとシウマイを交互に食べ、その合間に玉子焼きやかまぼこでビールを飲み、終盤はあのネッチリとしたあんずで口を直し、最後に一つだけ残しておいたシウマイで〆る」ことをイメージしていただけにショックは大きかった。とはいえ、無いものは仕方がないので15個入りの「昔ながらのシウマイ」をふた箱買うことにしたが、僕が会計をしている間にも、2~3組のおばさまたちが「あらっ、お弁当ナイの?」「いつ入荷するの?」と騒いでいた。

 「昔ながらのシウマイ」ふた箱をぶら下げて帰宅した後、妻にその話をしたところ、どうやら少し前にテレビで崎陽軒が紹介されたらしく、その影響で弁当類が品切れになっているらしい。「いつでもあるはずのものなのにねぇ」と妻は言った。そういえばしばらく前にマックの店頭でフライドポテトのM・Lサイズが消えたと話題になったことがあった。コロナや悪天候による物流網の混乱が原因とされていたと思う。いつでもそこにあるはずのもの。それはきっかけさえあれば、簡単に目の前から姿を消してしまう。

 ある時期まではグローバル化の名のもとに、物流と情報網を駆使すれば世界中から「安く、大量に、安定的に」モノを調達することができると考えられていた。しかし、現在ではコロナ禍や戦禍によりその供給が必ずしも永続的に保証されているわけではないと感じる人も多いだろう。食品に限らず、衣類やレザーシューズなどのファッションアイテムも例外ではない。「昔は大量に作ることができたもの」「10年前とは値段が大幅に変わったもの」「質が変化したもの」など、ありとあらゆるモノに対して同じことが言える。僕が10代を過ごした1990年代まではアメリカ製のリーバイスやコンバースなんて「いつでも、どこにでもあるはずのもの」だった。

 もはやこれから先の時代に、質や値段が確実に担保されているものなど無いのかもしれない。待っているだけではやってこない未来。よく食べている牛丼が来週には980円まで値上がりするかもしれない。販売中止になっているかもしれない。これは、必ずしも「未来は当てにならないから刹那的に生きた方がいい」と言っているわけではないが、ただ目の前にあるモノを無条件に信じる瞬間もあっていい。もっといいものがあるんじゃないかと探し続けている間に、「現在」は形を変えてどこかへ逃げ去ってしまうかもしれないから。






鶴田 啓


ねじ18


いつだったか「古道具坂田」の店主・坂田和寛氏が蒐集したアフリカの腰巻きを100枚近くまとめて展示する、というエキシビジョンを見に行ったことがある。その腰巻きは、アフリカ中央部のコンゴ熱帯雨林に暮らすピグミー族が樹木の皮を剥がし木槌で打つことで繊維と繊維を絡ませて作った「タパ」と呼ばれるものらしい。展示してある「タパ」の一点一点には(動物や昆虫や星など)自然界にあるものをモチーフにした幾何学柄が多様に描き込まれていた。

熱帯雨林の奥深くに住む民族が日常的に使用していた「タパ」だが、これがヨーロッパに伝来した際、現代美術として高く評価されるようになったらしい。美術評論家たちは、この複雑怪奇な柄の連続/不連続に対して難解な分析と解釈を振り回して大いに論じたという。美術の観点から見ると通常では考えられない位置で柄が突然切り替わり、断絶している。2分割や4分割になった柄のコンポジションが、絵画の構成としては極めて異質なものに映ったようだ。

一方で、「タパ」は日本でいうところの「ふんどし」に近い衣類。ピグミー族は「タパ」を二つ折りにして昨日と今日で異なる面を表にして使っている。展示会場内には坂田氏による「評論家は難しいことを言うけれど、実際には昨日と今日でふんどしに違う絵柄を描いて遊んでいただけ。それを広げると柄が断絶して複雑に見えるってことなのにね」という文意の解説があった。

美術に限らず、映画評にしても音楽レビューにしても、世の中に存在するあらゆる評論は「そのジャンルに深く通じた識者が物事の善悪や価値を判断し批評する」という前提の上で、あくまでも「他人の解釈」である。史実や文脈や構造を解きほぐした上で再び繋ぎ合わせ「論」として練り上げた結果、事実とはかけ離れた位置に結論が落ちることだってある。どれだけ客観視に努めたところで、人間は自らの主観を完全に切り落とすことが出来ない生き物だと僕は思っているので、それも当然のことだと言える。一枚の絵を前にして「自分と他人とではこうも解釈が違うのか」と認識する点に評論そのものの面白さがある、と。「タパ」に関して、坂田氏の一刀両断を見るとヨーロッパの美術評論家たちが血眼で論じていたことは壮大な徒労であったと思う向きもあるだろうが、個人的には「難解な論評」も「単純明快な視点」もどちらもあって良いと思っている。それぞれの立場は「物事には必ず理由や因果関係や文脈がある」と「いやいや、考えすぎだよ、意味ないよ」に分かれるのだろうが、どちらにしても根底には「人間とは暇な生き物である」という事実があるような気がする。「生まれて、生きて、死ぬ」というだけではどうにも退屈してしまうのだろう。だからこそ、人はファッションを発明し、音楽を携帯し、酒を飲み、ゲームに興じ、美術に触れる。それはピグミー族がふんどしに絵を描き、評論家がそれについて論じたことも、どちらも同じ意味で「大いなる暇つぶし」であるような気がする。そして、いまこのコラムを読んでくれているあなたも、もれなく暇をつぶしている。勿論、こんなどうでもいいことをダラダラと書いている僕は言わずもがなである。



鶴田 啓

ねじ17




 「マンネリ」という言葉は、しばしば「退屈」に繋がるネガティブな言葉として使われることが多い。「単調でワンパターン」「模倣ばかり、独創性がない」「使い古されていて、新鮮味がない」など、同じことを繰り返す中で失われていく事象。それを避けるために、人々は「脱・マンネリ化」を掲げながら、日々新しいことにチャレンジしていく。

 一方、「マンネリ」という言葉の語源について検索すると、以下のような説明に行き当たる。

 「マニエリスム(伊: Manierismo ; 仏: Maniérisme ; 英: Mannerism)とは、ルネサンス後期の美術で、イタリアを中心にして見られる傾向を指す言葉である。マンネリズムの語源。美術史の区分としては、盛期ルネサンスとバロックの合間にあたる。イタリア語の『マニエラ(maniera:手法・様式)』に由来する言葉である。ヴァザーリはこれに「自然を凌駕する行動の芸術的手法」という意味を与えた」(Wikipediaより)

 僕は無学なので即座には理解しかねる内容だが、要するに「普遍的な美の存在を前提とした上で、最も美しいもの同士を繋ぎ合わせて可能な限りの美を作り上げる古典的様式」、つまりミケランジェロやレオナルド・ダ・ヴィンチらの作品をイメージすればよいのだろうか。細部まで緻密に計算し尽くし、黄金比の安定感を利用した上で作り出されるものは芸術のみならず、建築やファッションにも通ずるものがある。

 僕は洋服屋なので、ファッションについてのみしか語ることができないが、クラシックなスーツスタイルなどはマニエリスムの流れからくる洋服の典型だと思える。全体のシルエットや素材感、カラーリングなど、古来から人々が安定的に美しいと思う組み合わせ同士を「ジャケット、パンツ、シャツ、ネクタイ、ソックス、ポケットスクエア、シューズ」といった最小限のフォーマットに落とし込むことで、最大限の美に繋げていこうとする様式であるからだ。すなわち、正解と不正解が存在する世界。ミリ単位で加えられた修正を積み重ねていくことで、最も美しい襟型やラペルの返りやプロポーションを完成させていく。素材感や配色、ディテール本来の意味や由来に目を凝らし、親和性が高いもの同士の相性を信じ、ひたすらに完成美を追求していく。そう、つまり、ある瞬間に完成形が待ち受けているということだ。最も美しい組み合わせを編み出した後は、それを繰り返し、新しい世俗的なものには目もくれず、より強固なものに圧縮していく。

 僕は洋服屋である以上にファッション屋でもあるので、完成する前に壊したくなってしまう俗物だ。それでいながら、毎朝鏡の前でジャケットを着て、シャツに袖を通し、ネクタイを締める。マンネリに陥らないように、いつかの過去と同じ組み合わせを二度としないように心掛けている。我ながら何をやっているんだか分からなくなる時もあるが、古典的なフォーマットの上で完成美を破壊しようとしているのか。もう何千パターンとシャツ+タイの組み合わせを試し続けているので、少なくともワンパターンで満足できるような人間ではないのだろう。自ら縛り上げた世界の中でもがきながらも、安住の地は求めない。

学生時代に読んだ本、丘沢静也著「マンネリズムのすすめ」(平凡社)には「 マンネリズムは無駄なエネルギーを使わない、力まない、肩もこらない。 日々の暮らしは繰り返しが基本なので、良いマンネリは無駄なエネルギーを使わない成熟した生き方である」といった内容が記されていたが…。さて、僕のようにいつまでも成熟や完成と縁遠い生き方をする人間は、果たしてどのように進んでいくのだろうか。そんなことをぼんやりと考えながらも、明日の朝になれば僕はやっぱり鏡の前でシャツに袖を通し、ネクタイを締めるのだろう。ふと、思ったが、僕が立川流の落語を好きなのは、そんなところに理由があるような気がした。





鶴田 啓



ねじ16

 

森田芳光監督の映画「の・ようなもの」(1981)。若手落語家の出船亭志ん魚(しんとと)は自分の誕生日記念にソープランドへ行き、そこで働くエリザベスと出会う。ストーリー自体は80年代らしい弛緩ムードの青春コメディ。落語家の志ん魚を伊藤克信、ソープ嬢のエリザベスを秋吉久美子が演じているが、志ん魚が着こなすプレッピールックを含め、全体的になんとも味があって良い雰囲気の映画だ。2016年に続編「の・ようなもの のようなもの」が公開されているが、そちらは未見。

 そもそも、本作のタイトルにもなっている「~のようなもの」という表現は三代目三遊亭金馬が得意とした噺(はなし)「居酒屋」から来ている。 居酒屋にやってきた酔客が「肴はなにができる」と小僧に尋ね、小僧が早口で「へえい、できますものは、けんちん、おしたし、鱈昆布、あんこうのようなもの、鰤(ぶり)にお芋に酢蛸でございます」と答える。「今言ったのはなんでもできるか?」と客。「そうです」と小僧。「よし、それじゃ『ようなもの』ってのを一人前持ってこい」 という掛け合いになるのだが、果たしてここで小僧が答えた「あんこうのようなもの」とは一体何だったのだろうか?この噺にインスパイアされて作られたのが立川志の輔による新作落語「バールのようなもの」である。

 こちらの噺の中では、八五郎が物知りのご隠居に「『〇△区の宝石店に泥棒が侵入し、バールのようなもので店のシャッターをこじ開け、犯人は車で逃走しました』…って。あれわかりませんよねぇ」と尋ねる。「お前も大工なんだから『バール』くらい分かるだろ」とご隠居。「いや、それだとバールでしょ?『バールのようなもの』ってのがよく分からない…」「あ、なるほど。でもそれは誰もはっきりと見ていないから『バールのようなもの』と言っているんじゃないか?泥棒には違いないし、車で逃げたのも間違いないけれど、バールかどうかは分からないってことだな」「でも、バールのようなものっていったらバールじゃないんですか?」「いやいや、バールじゃないからバールのようなものって言ってるんだろ」「いやいや、バールのようなものはバールでしょ」「…お前、『これは肉のような味がしますね』と言ったとき、それは肉かい?」「肉のような…肉…とは言いませんね」と八五郎は納得する。

 ちょっと複雑ではあるが、たしかにご隠居が言うように「のようなもの」と表現した時点で、それそのものとは別の何かだと認めたことになる。「あんこうのようなもの」はあんこうではない。「落語のようなもの」は落語ではないし、「映画のようなもの」は映画ではない。「ファッションのようなもの」はファッションではないかもしれないし、「ミリタリータイプのジャケット」はミリタリーアイテムではない。「1950年代風デザイン」は最近作られたもの。「クラシックテイスト」は当然、古典的ではない。じゃあ、この世に存在する真贋定かならぬ物事が全て悪なのかと言うと、そうでもないと僕は思う。

 「落語のようなもの」「恋愛のようなもの」と格闘しながら自分を見つめ直す青年。「青春のようなもの」。それを切り取る「映画のようなもの」。

 本編の終盤、 彼女である由美の自宅に招かれた志ん魚が、自らの落語の下手クソを指摘され、とぼとぼと帰路に就く。終電を逃し、堀切駅から浅草まで(40㎞以上?)の道を夜を徹して歩きながら道中づけ( 目の前を流れていく風景にそのままナレーションをつける)をしていくそのシーン。これはなかなかの名場面で、トランス状態の志ん魚がべらべらと描写する下町の光景に軽妙なビートのバックトラックが重なり、それはまるで、なんとも不思議な「音楽のようなもの」「ヒップホップのようなもの」「ビート文学のようなもの」に変容していた。たしかに何者でもないかもしれないけれど、素直にカッコいいと思える物事。自分自身のアイデンティティを探そうと躍起になる前に、まず歩き出すことは意外と大事なことなのかもしれない。安い居酒屋で「あんこうのようなもの」を肴に「ビールのようなもの」を飲み干すくだらない瞬間も、それはそれで嘘偽りのない「人生のようなもの」だと思う。




鶴田 啓



 

ねじ15


 

 少し前の話になるが、映画「君の名前で僕を呼んで」(2017)を鑑賞した。公開当時から話題になっていたし僕の周囲の評判も上々だったけれど、なんとなくタイミングを逸していた。期待しすぎない程度に「さて、どうかな~」なんて思いながら配信サービスで見てみたところ…かなり良かった。いや、最高に良かったのだ。

 主人公ふたりの繊細な心の動きを、実際の演技や台詞そのものよりも、むしろシーンとシーンの間にさりげなく挿入される自然豊かな北イタリアの風景や、ジョン・アダムスや坂本龍一によるピアノを中心にした静かな楽曲がより雄弁に語っていた。エリオを演じるティモシー・シャラメはこの映画のためにピアノとギターを練習したらしいが、鍵盤のはじき方で感情表現するほどに技術を習得するプロ意識が凄まじい。本作後に撮られたウディ・アレン「レイニーデイ・イン・ニューヨーク」(2019)の劇中ではチェット・ベイカー「Everything Happens To Me」をサラッと弾き語る姿が板についていたし、「芸は身を助く」とは正にこのこと。 「フレンチ・ディスパッチ」の中でもクセ者だらけのキャストの中で特別な存在感を放っていたティモシー・シャラメ。彼はすごい役者だなあ。

 音楽やカメラワークだけで映画の核になる要素の大部分を表現してしまっていた本作だが、唯一、台詞そのもので鑑賞者に訴えかけようとしたのが本編のラスト近く、エリオの父親がリビングでエリオに語りかけるシーン。ダイレクトでありながらも優しさと悲しさをたっぷりと含んだその言葉は、全編通して間接的な表現が多かった本作の中で、これまで黙って息子を見守り続けてきた父親が初めて自分の息子を一人の男性として認めた上で投げかけた長いセリフだった。本作は「決して語り過ぎにならないように、寡黙と雄弁のバランスにかなり繊細に気を配りながら」演出されたものだろう。

 ところで、1983年(原作では1987年)に設定されたこの物語の舞台の中で、完全なる「アメリカ人」として描かれているのはアーミー・ハマー演じるオリヴァー。堂々と自身に満ち溢れたキャラクターとがっしりした体躯で着こなす1980年代当時のアメカジバランスが実にハマっている。コンバースのハイトップや短めのショーツ、文武両道のインテリらしいB.Dシャツのラフなこなし方。僕にとって1983年時点でのアメリカ人ファッションは古い雑誌の広告など、イメージの中でしか体験していない遠い存在だが、この映画ではついつい洋服にも目が行ってしまうほどリアリティを持って描かれていたと思う。繊細で華奢な体つきのエリオが纏うイタリア避暑地スタイルとの対比も良かった。

 と、一点だけ。オリヴァーが着ていたたっぷり大きなサイズのB.Dシャツ。裾にチラッとポニーマークが見えたので、おそらくはラルフローレンのBIG POLOシリーズだと思われる。BIG POLOを見ると僕は自分の父親を思い出す。うちの父は体がデカい。身長が190㎝近くあり、体育教師を務めていた。職業柄もあるのだろうが、体がデカすぎてサイズが選べないのか、大体いつもジャージを着ていた。そんな父親が、転勤か何かのタイミングで教え子から洋服のプレゼントを貰って帰ってきた。それがBIG POLOの鹿の子ポロだった。プレゼントした生徒たちも大きなサイズを選ぶために苦労したのだろう。当時のファッションアイテムとしてのBIG POLOは体がデカいうちの父親の体にぴったりだった。当時中二だった僕はラルフローレンの緑色のポロシャツを着ていたが、BIG POLOは持っていなかった。BIG POLOは憧れだったので、こっそり父親のタンスから拝借して着たりしていた。それは、まるでエリオがオリヴァーから譲ってもらったシャツを着ているようなルーズフィットだった。そんな記憶が蘇る。ふと、僕が中二だったとしたら、それはリアルタイムで1992年。BIG POLOシリーズは数年間だけの展開だったはずなので、1983年のアメリカ人は着ていないはずじゃないかな…。なんて。まぁ、そんなことはどうでもいい。僕にとって、この映画はBIG POLOと言いリビングの会話シーンと言い、なんとなく自分の父親を思い出す映画にもなった。

 ところで、「君の名前で僕を呼んで」。この映画には続編の制作が予定されているらしいが、個人的には作らなくてもいいんじゃないかなぁ、と思っている。長回しで撮られた暖炉前のラストシーンは、これ以上の続きを必要としないくらい、確かに永遠を映していた。





鶴田 啓

 

ねじ14

 

 AM10:30。銀座線の渋谷駅。ホームに響き渡る「駆け込み乗車はおやめください、駆け込み乗車はおやめくださ~い!」というアナウンスの制止を振り切って一人のおばさんが3番線の車両ドアへ全速力で飛び込んでいくのが見えたが、その列車はあと4分くらい発車しない後発列車だった。車両の中で息を切らすおばさんを尻目に、4番線から「浅草行」の先発列車がゆっくりと動き出した。現代人は時間に終われている。

 人間の歴史は移動手段のスピードと関係していると思う。例えば、人類が馬に乗ることを覚えなければ、世界地図は現在と全く違う形になっていただろう。もしも馬が今川義元の想像を超えるほど速く夜道を駆け抜けることが出来なければ、桶狭間の戦いで織田信長の奇襲は成功しなかっただろう。

 戦に限らずとも、古代から人間の移動や輸送に大きな力を貸してきた馬。A地点の文化が遠く離れたB地点へと伝播していくとき、馬の存在無くして人は長い距離を移動することができなかっただろう。中央アジアを横断する交通路として機能したシルクロードは中国からのシルク輸出の他にも、仏教をはじめとする宗教、哲学、科学、あるいは紙や火薬のような技術の東西交換を可能にした。経済的な貿易のみならず、ペストなどの病気もシルクロードを通じて伝搬したとされている。 その後も自動車~飛行機の発明に伴って移動や輸送のスピードはますます上がり続け、人々は時間の短縮と行動範囲の拡大を手に入れた。情報に関しては手紙が電話やFAXに変わり、電気信号の応用としてインターネットが普及すると、あっという間に注文書が相手の元に届くことになった。注文から24時間以内に商品が届くほど輸送ルートは整っている。あとはSFに出てくるような転送装置さえ完成すれば注文した2秒後には商品が手元に届く時代もそう遠くないのかもしれない。

 MANHOLEでは一部の商品に限ってオンラインショップを展開しているが、実際に店頭に来て頂いたお客さんにはオンラインショップ以上の楽しさを感じていただけるように日頃から考えている。先日、店内でこんな光景を見かけた。あるお客さんがパンツの購入を決定したその直後に、別のお客さんが同じパンツを目的に来店されたのだが、生憎そのパンツはそれが最後の一点だった。それを知った先のお客さんが後のお客さんに「よかったら試しに穿いてみてください。僕はそのパンツじゃなくても大丈夫なので」と勧め、後のお客さんは「いえいえ、そんな…ほんとにいいんですか?」と言いながら試着された。フィッティングから出てきたお客さんを、先のお客さんは「すごくお似合いですね」と褒めていて、結局、そのパンツは後のお客さんの手に渡った。先のお客さんは別のニットを購入された。初対面の他人同士が洋服屋の店頭でお互いに譲り合いながら買い物をする光景は、ちょっと不思議で微笑ましく、猛スピードで突っ走る現代社会のギアが少しだけ落ちたように感じた瞬間だった。

 オンラインショップやブログは遠方の方々や直接お店に足を運べない人々にとって情報源であり購入手段である。数あるネットショッピングの中から、わざわざ調べて購入を検討していただくことを僕らは勿論ありがたく思っている。一方で、ファッションには情報や物質以外の側面がたしかに存在する。僕が店頭で見かけたその光景もある意味ではファッションの一部だと思う。

 0か1か。二進数で進むインターネット上では、タッチの差で品切れになった商品の購入ボタンは押すことができない。しかし実際に店舗を構える洋服屋としては、スピードの優劣がすべてを決めてしまわないお店こそが個人的には理想だと思う。それは譲り合いとか、そういう意味だけではなく、欲しいものが売り切れていてもいなくても場所として機能するということ。そのスピードが緩やかになる瞬間、ファッションは激しい情報戦線やスピード争いの螺旋から抜け出し、本来いたはずの場所に戻ることができる。外苑前にあるMANHOLEは立地的には決して便利とは言えない場所にある。遠方の方々には尚更時間をかけて来てもらうお店かもしれない。しかし、僕らはスピードを落とすことを厭わずに場所を求めている。そうありたいと思っている。MANHOLEにお越しの際は、時間に余裕を持ってゆるりと来ていただきたい。ゆっくりと楽しんでいただきたいと思う。なにより、その方が銀座線へ駆け込み乗車する必要もないし。




鶴田 啓

ねじ13

 

先日、友人が運営する飯田橋のアートギャラリー「roll」へと足を運んだ。写真家・木村和平氏の写真展『石と桃』が開催されており、僕は友人への差し入れとしてコンビニで買ったハッピーターンを握りしめて地下鉄C1出口への階段を上った。

 会期初日ということもあり会場にはすでに3~4組ほどの来客。木村氏も在廊していたので、しばらく作家本人と話し込んだ。聞けば木村氏は幼少期から「不思議の国のアリス症候群」という症状を抱えて生きてきたという。Wikipediaによると、この症状は「知覚された外界のものの大きさや自分の体の大きさが通常とは異なって感じられることを主症状とし、様々な主観的なイメージの変容を引き起こす症候群」とある。例えば蚊が数十㎝のサイズに感じられたり、逆に子供から見た母親が自分よりも小さくなったような気がしたりするらしい。サイズの比率が歪むだけでなく、色覚についても異常を感じたり(人の顔が緑色に見える、など)、遠近感が不安定になったり、尖ったものと柔らかいものの区別が曖昧にになったりと、その症状は実に様々であるようだ。木村氏自身の幼少期からの体験や違和感をテーマに今回の個展『石と桃』は会場内の構成を緻密に組んであり、展示方法も含めて非常に興味深い内容だった。

 そういえば数日前に自宅でテレビを見ていたらCMで辻井伸行氏がピアノを弾いていた。横にいた6歳の息子が「この人、目、どうしたの?」と言うので、僕は「この人は目が見えないんだよ」と答えた。「ひとつ?え、ふたつとも見えないの?珍しいね」と息子。僕は「そうだね、でも○○(息子の名前)は目が見えるけど、ピアノが弾けないでしょ?辻井君は目が見えないけど、ピアノがとても上手に弾けるね」と返した。

 木村氏は 「不思議の国のアリス症候群」 の症状のひとつとして、実際には存在しない強い蛍光色が視界に侵入してくることがあると言う。今回の展示『石と桃』では、モノクロームの作品にシルクスクリーンで蛍光ピンクを差し込んだものがあり、僕が「例えば、このピンクのような色が突然見えるということですか?」と尋ねると、木村氏は「この色も、そのひとつです」と答えた。また、現代美術家の草間彌生氏は世界のすべてが無数の水玉で構成されているように見えると語っている。つまり、草間彌生は目に見えるものをそのまま描いていることになるし、木村和平は目に見える光をそのまま撮っていることになる。

 美術館やギャラリーでアートに触れたり素晴らしい音楽に出会ったりすると、目に映る風景や世界がそれまでとはまるで別物に映る、という人がいる。確かにそのような感覚はあるし、アートとはそのようなものだし、僕も過去にそのようなことを書いてきた記憶がある。しかし、それは草間彌生のように風景が水玉の集合体に見えるようになるということを意味しない。むしろ逆であって、つまり「見えなくなる」のである。アートによって新たな視点を付与されればされるほど、見えなくなる。どれだけアーティストになり切って世界を見ようともがいたところで、見えないものは見えないのだ。「彼」や「彼女」には見えたものが「自分」には見えない。見えないということが確信に変わる。体験したものが素晴らしければ素晴らしいほど、自分の目にはそれと同じような風景が見えないことに寂しさを覚え、劣等感を抱き、自らの感受性が乏しいことを呪い、妬む。とりわけ若い頃は、そのような想いに囚われる人もいるだろう。しかしいずれ、この「見えない」ということそのものが自分自身の独自性であるということに気づく。見えない、という独自性。その結果「逆に、彼らには見えなくて自分に見えるものは果たして何だろうか?」と考えることになる。

 自分の想像の中で他人を一括りにすることは容易い。アーティストが見る世界を「普通じゃない」と断じることも容易い。誰もが、自分自身が見てきた風景こそ一番普通だと思って生きているから。しかし「普通じゃない、平凡ではない、独特であるのはむしろ自分の方だった」と自身の独自性を発掘する時にこそアートは機能する。飯田橋の地下鉄へ吸い込まれながら僕は思った。

  少し前にオザケンこと小沢健二が、この心象を的確に五七五で詠んだことがある。「忘れるな 他人の普通は 超異常」と。この場合、言葉の強さとして「超異常」に引っ張られてしまいがちだが、実は最も恐るべきは「普通」という概念の方だったりするのだ。僕から見ると異常な言語感覚を持った他人であるはずのオザケンにとって、他人である僕の普通がそうであるように。





鶴田 啓

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