column

ねじ12




 およそ2か月近く続いた「まん延防止等重点措置」 が都内でも解除された。いろいろな状況が完全に元通りに戻ることなんてことは、現時点で望むべくもないのだけれど、それでも休業していた飲食店がシャッターを上げて久しぶりに営業を再開し始める光景を目の当たりにすると少しだけホッとする。僕の自宅近くに古くからある居酒屋や寿司屋、中華屋など、馴染みの店が閉まっていると、店の前を通るたびに「あの大将、元気かな」という心配が僕の頭をよぎってしまうので、「まん防」が明けて軒先にのれんが出ているのを見ると少しだけ安心するのだ。

 ところで、この2年ほどの間にほとんどの飲食店は営業時間の短縮や営業自粛を余儀なくされた。休みの日や仕事帰りにふらりと飲み屋に寄ろうと思っても開いている店がほとんどない。開いていないのは仕方がないし、都の要請に従うことは感染症対策の意味でも彼らが生きていくためにも必要なことである。 いつもの店が開いていない以上、 僕の選択肢は限られてくる。通常時ならば足を踏み入れることのない店ののれんを必然的にくぐることになるのだ。

 美味い店で美味い肴をアテにして美味い酒を飲む。僕に言わせれば、そんなことは誰にでもできる芸当である。肝心なのは、マズい店で如何にしてマズ過ぎない肴をアテにしてマズ過ぎない酒を飲むか、である。通常営業時であれば、ネット上の口コミを参考にしたり、それなりに客が入っている人気店を選べば大きくハズすことはないのだが、コロナ禍では競合店のほとんどが休業している為、不人気店がにわか繁盛店に変わっている恐れがある。とはいえ、どうしても今宵この夜、酒が飲みたい。一旦そのモードに入ってしまうと、僕はどこかの酒場に「必ず入店しなければならない」のだ。やむを得ず初めての店でオーダーする場合、観察力と想像力がモノを言う。簡単に言うと「基本的には全メニューがマズいと想定して、その中でマズくなりようがないだろう一品を選ぶ」ということに尽きる。以下、場末の汚い居酒屋に一人で初訪した際の心得。

 まず、ドリンク編。第一に、生ビールは避ける。 メニューには「生ビール」と書いてあっても雑酒である可能性があるし、サーバーの洗浄が十分になされていない場合、味や匂いがイカレている恐れがある。ということで、頼むべきは瓶ビール。ラベルを偽造したりでもしない限り、必ずラベルに書いてあるとおりの銘柄のビールが飲める。瓶ビールが無ければ、ホッピー。せんべろ系居酒屋の場合、原液の焼酎自体がロクなもんじゃない可能性が高いけれど、瓶詰めされた「そと」は本物のホッピーなので半分以上は安心である。

 次はフード編。まず、周りにいる先客のテーブル上を横目で確認する。大体の場合、誰かしらが刺し盛りを食べているので、その内容を観察する。一品料理であればその量を確かめる。そしてホワイトボードのオススメ、メニュー表といった感じで順次見ていく。

 先日初めて入店した薄汚い居酒屋では、隣のオジさんが食べているマグロ刺しを見たところ、ピンク色のういろうを薄切りにしたような物体だったため、刺身類はすべて却下。肉じゃがや煮込み類も危なそうな感じがした。とりあえずホッピーを頼んだ後、無難そうなマカロニサラダを注文したらコンビニで売られているパックを開封しただけのような味がしたので中濃ソースで味変しながら食べた。メニュー表に「合鴨スモーク」の文字が見えたので、間違いなくスーパーで売られているパウチ食品だろうと想像したところ、まったくその通りのものが出てきたので安心して食べた。揚げ物欄に目をやると「メンチカツ」「ハムカツ」「とり天」などがあって、もっとも無難そうなのは「ハムカツ」に思えたが、ハズした上にボリュームがあり過ぎてもイヤなので、すぐ隣に書いてあった「うずらフライ」を頼んだ。うずらの卵の缶詰に衣をつけて揚げただけなので、思った通りの味がした。全然大丈夫だった。隣の客が食べていた「とりかわ串」は輪ゴムを一度溶かした後に四角く固め直して串刺しにしたようなルックスだったので避けた。やはり、危険を察知した店では「極力、人の手が加えられていないもの」を頼むに限る。

 それはそうと、この手のマズい店。古くからそこにある割に何故かマズいままであり続けるなんて、ある意味ではスゴイと思う。マズいと気づいていないのか、味を改善する方法が分からないのか、マズいのは知っているけれどそのままでいいと思っているのか。実際に僕の自宅近所にも、そういう店がある。すっぽん料理・大衆割烹の看板を掲げているのだが、10年ほど前に初めて入店したとき、小上がりの畳はボロボロで毛羽が物凄かったし、料理には良いところが無かったし、なによりもハイボールが絶望的にマズかった。が、その店は40年くらい続いているし、まんぼう中も闇営業をしているのか、深夜に前を通るといつも薄明かりが灯った店内からは客の笑い声が漏れていた。僕は初めの一度っきりしか行かなかったが、その店は2年前の緊急事態宣言も切り抜けて現在も普通に営業している。

 毛羽畳すっぽん屋もピンク色のういろう屋も店構えを見る限りかなり老舗のはずだが、相変わらずマズい店である。メニューの改良や品質の改善を行った形跡がまるで感じられないほど、現役バリバリで今もマズい。通常、人は向上心を持つ。駄目になることを恐れるし、努力することで他人よりも優位に立ちたがる。マズければ美味しくしようと研究するし、汚ければ綺麗にしようとする。競争に勝とうとする。しかし、これらの店には多分それがない。駄目なままであり続けること。他人に叱られようが、軽んじられようが、低く評価されようが、頑張らない。一種のパンク。ノーフューチャー。坂口安吾「堕落論」。

 これらの店に唯一長所があるとすれば、それは「いつでも開いている」ということ。これから先、何度も訪れるだろう時短営業、営業自粛、閉店、不測の事態。いつもの店、美味い店が開いていないときでも、必ず開いているのがマズい店である。なぜか、彼らはしぶといのだ。3億年も昔から地球上に存在するゴキブリのように、必ず生き残る。だからこそ僕らはマズい店で出来るだけマズくない酒を飲む術を身につけなければならない。

 世の中的に高く評価されているもの、高級なもの、気が利いたもの、綺麗なもの。それらが仮にすべて無くなってしまった場合、それでもマズいものは生き残る。だからこそ、僕らはそれを楽しむべきだ。価値がないダメな古着を自分のバランス感で楽しんで着られるようになれば、ヴィンテージが枯渇しようが、価格が高騰しようが、僕らは洋服を楽しむことができる。アメリカ製のボディが無くなったからといってピンク色のういろうを食べる羽目になるなんて、そんな二択は真っ平ごめんだ。20年後にファストファッション古着でも洒落ていられる人は、いま既にコロナ禍でも物事を楽しんでいる人のような気がする。




鶴田 啓

ねじ11



 ある日、最寄駅前の広場を歩いていたら、うじゃうじゃと20羽程はいるだろう鳩の群れが我先にと争いながら小分けにちぎられたパンの耳を一心不乱についばんでいた。誰かがいつもこのあたりで餌付けしているのだろうか。ふと見ると、その傍に70代半ばくらいに見える二人の爺さんが後ろ手に組んで立っていた。二人とも青色のナイロンジャンパーを揃いで羽織っており、バックプリントされた黄色い文字を見る限り、どうやら彼らは駐車監視員(放置車両確認機関から選任されて違法駐車を取り締まる警察官以外の監視員)のようだ。

 爺さんたちは駅前に蔓延る違法駐輪の自転車には目もくれず、餌に群がる鳩たちを眺めながら二人して柔らかな微笑みを浮かべていた。彼らの目には駅前の広場で自らの生存をかけて必死で餌にありつこうとする鳩たちの姿が「可愛い、他愛ない存在」として映るのだろう。それは、2歳の孫がティッシュ箱からティッシュペーパーを無限に取り散らかしている姿を延々と眺める好々爺のような顔つきで、「よしよし、よー食べよるわ、もっと食え食え、元気が一番じゃ」と言わんばかりの大らかな表情であった。地上20㎝くらいの高さで蠢(うごめ)く鳩の本能や生(せい)への執着を遥か上方(地上160~170㎝)から見下ろすその視点はまるで人間の所業を見守る神の目線であるかのように、僕には思えた。例えば長年勤めた会社を定年退職し、現在は地域に貢献する職務に従事しながら悠々自適に老後を暮らす彼らからすると、仲間を押しのけてでも今日の食いぶちにすがりつこうとする鳩たちに食パンを与えることは無邪気な施しの目線であり、それは自らの生死を分かつことのない余裕や余剰から生まれたパンである。

 別に僕は「鳩や野良猫に餌をやる人は偽善者だ」と断罪しているわけではない。勿論、自分自身が飲まず食わずの状態であるにもかかわらず、空腹の他人にパンを分け与えることができる人は圧倒的に優しい。しかし、いとも簡単にそれをやってのけることができる人は実際のところかなり少数派だろう。つまり「簡単にできるこっちゃない」。だから、人が見せる優しさとは「自らに危険が及ばない距離からの施し」が殆んどだろうし、人間とは結局のところ、大なり小なりの偽善者であることが本質であるとも思う。溺れる人に向かって陸からロープを投げることと、沈むボート上でひとり分しかない浮き輪を他人に譲ることの間には(昔からよく言われるとおり)大きな隔たりがあるし、「祖父母が孫に優しいのは子育てに対して責任が軽い立場だからである」みたいなことも散々と言われてきた。つまり、優しさの大半は距離感の問題だったりする。だからこそ、駅のホームから転落した人を線路に飛び降りてまで救助する人からは、その距離を一瞬で縮めてしまう善の瞬発力を感じて(僕みたいな人間は)もはや畏れに近い感情を抱いてしまうのだ。

 優しさや怒り、つまり感情移入の観点から距離感を視覚的に利用したものに「映画におけるカメラアングル」というものがある。カメラを構える位置が高くなればなるほどその映像は感情が取り払われた客観目線を意味し、低くなればなるほど(つまり被写体の目線に近づけば近づくほど)主観目線になる。クレーンやドローンを使って上空から映し出された映像はほとんど下界を見下ろす神の冷静な目線の様であり、面と向かって話しかけられる等身大のアングルは鑑賞者に当事者意識をもたらす。トリュフォーの『大人は判ってくれない』におけるアントワーヌ・ドワネルの独白シーンや、(おそらくはそれを模したものと思われる)『万引き家族』における安藤サクラの面会シーンが僕らの感情を揺さぶってくるのは、演技そのものが素晴らしいことに加え、カメラアングルに依る部分が実は大きい。是枝監督の作品にはラストシーンを上空からのアングルで締めくくるものが多く、本編中で濃密に描かれた人間ドラマを最後に空中から見下ろすことで、鑑賞者に対して「ところで、あなたはどう思いますか?」というドライな問題提起を投げかけているようにも感じる。

 上空から撮影されるキエフ市内への爆撃シーンと、カメラに向かって切実に訴えかけてくるウクライナ市民のインタビュー映像が交互に映し出されるニュースを見ていると、主観と客観が交錯し、混乱した感情が芽生えてくる。戦争による破壊行為や大量の死など、誰も望んではいない。しかしフェイクとリアルが混在した情報がネット上で錯綜し、各国のプロパガンダが応酬し合う心理戦を目の当たりにすると、現代社会の中では現実との距離感を掴むことがなんと難しいのだろうと悲しくなったりもする。ただ一つ言えるのは、今起こっている戦争は現実のものであり、フィクション小説や映画なんかでは決してない、ということだ。ウクライナ市民やロシア兵を、自分にとってかけがえのない近親者に置き換え、想像してみた時、僕らの瞳に映るのは果たしてどのような光景だろうか。

 ジョン・レノンが「想像してごらん」と歌ったあの曲が今も世界中で人々の心を動かし続けているのは「I hope someday you’ll join us」という歌詞の一節に込められた「わたし」「あなた」「わたしたち」という三つのワードが、平和という壮大なテーマのカメラアングルを一気に当事者(僕ら)の高さまで引き下ろしたからかもしれない、なんてことを思いながら僕は鼠色をした鳩の群れを眺めていた。

 



鶴田 啓

ねじ10



 4年ほど前、新宿で開催されていた浅井健一氏の個展『宇宙の匂い』へと足を運んだ。同名タイトル詩集の出版記念を兼ねた展示だったと思う。 1991年にデビューした伝説的バンドBLANKEY JET CITYをはじめ、SHERBETS、AJICOなどの音楽を通じて氏の世界観に触れてきた僕は『宇宙の匂い』というタイトルに対して特別な違和感を感じないまま瞬間的に受け入れてしまったが、よくよく考えてみるとそもそも宇宙に匂いなんてあるのだろうか?

 お店に来てくれたことのあるお客さんはご存じのことと思うが、MANHOLEの店内にも匂いがある。初めてのお客さんに「わぁ、いい香りですね」と言われることもしばしばだが、毎日働いている僕ら自身はもはやこの香りに対して無自覚になってしまっている。もっとも、しばらく時間を空けてしまえば、慣れてしまった嗅覚を再び刺激する香りに戻るのであろうが。

 「宇宙の匂い」について僕が4年ぶりに考えることになったのは、先日、柿ピーを食べながら家でビールを飲んでいた時のこと。小分けにされた菓子袋の裏側に書いてある豆知識みたいなものをぼんやり読むともなく読んでいた僕の目に飛び込んできたのは「宇宙にも匂いがある」というタイトルだった。その小話によると「空気がない宇宙空間にも匂いが存在する」という。勿論、直接匂いを嗅ぐことはできないのだが、宇宙飛行士が船外活動を済ませて宇宙ステーションに戻ってくると、宇宙服や機材には「宇宙の匂い」が染みついているらしい。その匂いは(地球上で言うところの)「溶接時に出る煙の匂い」や「焼けたステーキと金属の匂い」に近い感じらしく、僕は目の前にあるビールと柿ピーの匂いに鼻腔をくすぐられながら、遥か上空に広がる宇宙空間の匂いに想像を飛ばされてしまった。

 そういえば、詩集『宇宙の匂い』の表紙は愛車・サリンジャーにまたがった浅井氏の写真で飾られており、改めて見てみると大胆にカスタマイズされた「YAMAHA XS250」という名の鉄塊は、どことなく「鉄の匂い、煙の匂い、血の匂い」を連想させるものに思えた。浅井氏がNASAの宇宙飛行士の体験談を知っていたのかどうかは定かでないが、この詩集のタイトルと表紙デザインは結果的にイメージがぴたりと一致していたことになる。

 「2022年2月の或る夜、自宅でビールを飲んでいた僕が柿ピーの袋に書かれた小話を読み、宇宙を想像しながら4年前の記憶の糸を手繰り寄せてみたところ、ベンジーの詩集から鉄の匂いがした」という一連の流れには、ちょっとした時空の歪みみたいなものを感じる。例えば数年後、久しぶりにMANHOLEを訪れて店内の匂いを嗅いだ人は何についてイメージを膨らませ、どのようなことを思い出すだろうか。嗅覚が記憶や想像力を掻き立てる瞬間、そこにはもしかすると相対性理論を超えるほど壮大なトリップが用意されているかもしれない。脈絡がないはずのもの同士で、世界はねじれながら繋がっている。




鶴田 啓

ねじ9

 

 最近、マッサージ店をよく利用する。お店で洋服を売るという僕たちの仕事は「立ち仕事」なので一日の終わりになると脚や腰、肩などがバキバキに凝っている。以前はほとんど利用することのなかった整体・マッサージに足繫く(最近ではひと月に二、三度)通うようになったのは、自分の場合は年齢のせいもあるのだろうが、そのマッサージ店がいつもそれなりに混雑しているところを見ると「世の中、みんなけっこう疲れているんだな」と、思ってしまう。

 しばらく前から「今はメンテナンスの時代である」という言葉を聞くようになった。これまでのようなペースで生産・消費することについて考え直し、既にあるモノ・持っているモノにメンテナンスを入れて生き返らせる、ということ。例えば、モノが売れない時代において「アンティークウォッチ」や「本格靴」の需要が相対的に高まってきたことは「定期的にメンテナンスを入れて長く使う」という考えの普及を意味する。住宅のリノベーションブームも同様。新しく作るのではなく、作り直す、修理して使い直す。サウナやマッサージも、言わば肉体や精神に対するメンテナンスなので、現代は地球も人間も疲弊している時代なのだろう。

 人類にとっての負荷をできるだけ減らす、一度負荷をかけてしまったものはメンテナンスで回復させる。負荷になりそうなものはあらかじめ排除する。こうして魔女狩りや粛清を繰り返していくと、いずれ酒もタバコもポテチも炭酸飲料もエロ本もコンビニから姿を消し、完全に漂白されたホワイト社会が完成するのだろうか。

 確かにファッションや自動車産業は地球に悪い。アート作品だって、ちょっと見方を変えれば「何の役にも立たない粗大ゴミ」である。映画や音楽だって「最低限の衣食住からはみ出す存在」だと認識してしまえば、フィルムやレコードはこれ以上作る必要がない。健康や環境に悪いとされる負荷(マイナス)を徹底的に排除していけば、諸刃の剣で他のなにか(文化的なプラス)を失ってしまうこともありえる。勿論、それほど極端なことにはならないだろうが、やっぱり人間は「体に悪いと分かっていても、ポテチが美味いと感じる生き物」である。仕事で疲れ果てた後に、ポテチを食べながら飲むビールなんて最高に美味いじゃないか。毒を以て毒を制すことだってあっていい。

 できる限りの負荷を排除して、マッサージ台の上でゴリゴリと背中を揉みほぐされながら「これで元気になったとして、明日から何を楽しみに生きていくんだっけ?」と疑問に思ったとき、そこから立ち上がるためのモチベーションは何から貰えばいいのだろうか。疲れを癒すだけでは、人は生きていけない。解毒だけでも生きていけない。負荷を軽減することが目的になり、生きる目的を失ってしまわないためのバランス感覚。などというと、それは洋服屋のポジショントークに聞こえるかもしれないが、それでもやっぱり僕は「ファッションを楽しむこと」が何かの原動力になっている人間である。だからこそ、むしろ嫌悪するのはサスティナブルやSDGSを謳った商品がセールでもまだ余るくらい大量に作られている光景だったりする。それこそが、健康食品の顔をした毒物である。ポテチや炭酸飲料の方がまだいい顔してると思う。





鶴田 啓

ねじ8



 20世紀最大の芸術運動と呼ばれた「シュルレアリスム」。1919年には既に「自動書記」(何か別の存在が肉体に憑依して意思とは無関係に書記動作を行ってしまう、つまり日本で言うこっくりさんのようなもの)という形でシュルレアリスムの最初の試みが行われていたらしい。日常にある現実や倫理観をぶっ飛ばして、超現実の世界へ到達しようとする運動のはじまりである。

 先日、東京都庭園美術館で開催中の展示「奇想のモード」へと足を運んだ。20世紀初頭はファッションにおける変革の時代。ファッションデザイナーがシュルレアリストと共振し、それまでの常識では考えられなかったような<奇想>をモードへ持ち込み、人々の深層心理に影響を与えた、と言われている。会場ではマン・レイやサルバドール・ダリ、ルネ・マグリット、ジョルジュ・デ・キリコといったシュルレアリストたちの作品と並んで、同時代で彼らの影響をダイレクトに受けたエルザ・スキャパレリによるドレス、アクセサリーなどが展示されていた。彼女に端を発した「モードにおけるシュルレアリスム」は、その後もヴィヴィアン・ウエストウッド~マルタン・マルジェラを始めとするデザイナーたちに受け継がれてゆき、現在に至る。トロンプロイユ(だまし絵)やインサイドアウト、分断された人体へのフェティシズム等は2022年時点までの間に繰り返し登場してきたシュルレアリスムの代表的なモチーフである。現在、MANHOLEで取り扱いのあるブランドの中でBLESSやCLASSは、シュルレアリスムの系譜にあるデザイナーであると言ってよいだろう。

 シュルレアリスムが「超現実」を目指すのであれば、問題になってくるのは「今の世界の現実とは何か」という問いである。ファッションの歴史は(多少、強引な言い方をするならば)現実と超現実、リアルとシュールが波のように寄せては返し、砕け散り、の繰り返しである。昨今、リアルクローズと呼ばれるファッションが市民権を得て久しいが、それは大きな流れの中で見るとやはり繰り返しの一部分である。スケールの大小はさておき、リアルが過ぎるとやがて人間はどこかで反動的にシュールを求めるようになる。それは人間が飽きる生き物だという事実がひとつ。もうひとつは、現実の中だけでは人間は生きづらいということ。

「シュルレアリスム」が産声を上げたとされる1919年は二つの大戦の間に位置する。混乱や不穏な空気に疲れ果てた大衆が、アーティストたちが切った口火を皮切りに、現実を超えた世界へ誘われたとしても、何ら不思議ではない。

 原始の時代には動物の毛皮に身を包んで当たり前に暮らしていた人間も、現代社会の中ではファー/レザーアイテムを中心とした有機物への執着をむしろ忌み嫌うようになってきた。狩猟が身近にあった時代の人間にとって毛皮はリアルクローズであったが、20世紀初頭の時点ですでにスカラベや人毛、毛皮をふんだんに使った衣類と装飾品はもはやシュールな好奇の対象に変わっている。環境問題への提言がさらに進み、フェイクファーやエコレザーがリアルになっている2022年現在。PRADAをはじめとする各ブランドがリリースした極端に部分的なフェイクファー使いは、超現実の世界へ一歩踏み出そうとする動きに思える。世界中を未だ席巻し続けるコロナ禍による閉塞感の中にあって、昨年の僕が赤瀬川原平による『超芸術トマソン』を再読する気になったのも只の偶然ではあるまい。

 そして2022年、2月24日。ロシア軍がウクライナに対する軍事侵攻を開始した。

 シュルレアリスムの旗手として知られるフランスの詩人は1924年に次のような言葉を記している。

 「美は痙攣的なものであろう、さもなければ存在しないであろう」
―アンドレ・プルトン『ナジャ』より―

あな①



僕は、無駄に歩く。
車通りが少ない道を見つけるとすぐそこに入る。
普通は10分でいける道のりを20分、30分かけて歩く。
例えば駅を出てまっすぐ行って右、その後まーっすぐ歩けば辿り着く実家への道も。
まっすぐ行って右、まっすぐ行って左、右、左、右、右、左、まっすぐ行って信号待ち、まっすぐ行って左、まっすぐ行って左、まっすぐ行って左、右、まっすぐでゴール。
日によって右、左、まっすぐを変える。たまにぐるぐるする。
気になるもの、気に食わないものが目に入れば道を変えることが出来る。

暑かろうが寒かろうが雨だろうが雪だろうが、隣に誰かがいようがいまいが気にしない。
いや、嘘。気にする。
気にはするし、最近は歳のせいか昔より歩く距離が短くなってしまったけど、僕は無駄に歩く。


上野動物園内の最短距離、不忍の池をぐるりとまた駅に戻る。
赤い浅草の喧騒の反対側。朱色と黒の橋。邪魔な自転車に邪魔な僕。
15時ごろの隅田川はゴミが目立つ。生きてる魚は銀色、死んでるのは白、キラキラ光る黒白緑に濁った水。
見上げれば金色の雲、少し歩けば緑色の川に浮かぶ白と赤の船。手元には氷が溶けてガムシロップが沈んだ4層の甘くて苦くてぬるいアイスカフェラテ。
スカイツリーの麓から見る空は水色、登って見える光はオレンジ色、降りて見える光は赤紫色。
青暗い光の階段を上ると蛍光灯に照らされた黄緑色、透明の先の赤色、乳白色の中の赤/青/黄色。黄色と青が泳ぐ水槽。白い砂から伸びる黄色と黒。
青暗い光の階段を下ると白と黒のペンギン。脇には金魚の、赤。
出ると青黒い空、白くて黄色い点。
来た道を戻ったはずが間違えて錦糸町、更に歩いて戻ると見覚えのある銀色の橋。
夜21時の隅田川は光が目立つ。電車が通る白、街灯はオレンジ、キラキラ光る黒い水。
夜の浅草寺も赤い。もう帰ろうと電車に乗る。

上野から日比谷までは、どうやら歩けるらしい。







さて、無駄に歩く性格が災いしたせいか。
僕は人生で一度だけ怖い思いをしたことがある。
13,4年前。あれは19か20歳の春だったはずだ。

時間は深夜1時頃、終電で帰る僕は地元の駅について、いつも通り普通は10分でいける道のりを20分、30分かけて歩いて帰ることにした。
駅を出てまっすぐ行って右、その後まーっすぐ歩けば辿り着く実家への道。
まっすぐ行って右、まっすぐ行って左、右、左、右、右、左、まっすぐ行って信号待ち、まっすぐ行って左、まっすぐ行って左、まっすぐ行って左、右、まっすぐでゴール。

その途中。
まっすぐ行って右、まっすぐ行って左くらいの場所で気付いた。
後ろから「りん、りん」という鈴の音が聞こえ続けている。
なんだろう?と振り返る。後ろに女の子がいて、「わあ、大きな家。」と呟いた。
確かに目の前には地元の地主の大きな家がある。
ゾクッとしたけど、深夜1人で帰るのが怖いから同じ方向に歩く僕の後ろを歩いているだけなのかもしれないと、思うことにした。気持ちはわかるよ、この道は確かに、怖い。

ただ、念の為その大きな家をぐるりと回ってみることにした。
まっすぐ行って左、まっすぐ行って左、まっすぐ行って左。元の場所に出る。
残念ながらついてくる鈴の音、振り返るのは、怖い。

右、左、右、右、左、まっすぐ行って信号。タイミング良く点滅している青が目に入る。
で、渡り切って赤。振り返ると緑色の金網を手で掴んでガシャガシャ揺らして信号待ちをしている女の子。めちゃくちゃ怖い。
少しして振り返る、信号が変わってふらふら蛇行して横断歩道を渡る、女の子。

すぐ近くにはファミリーマート。
まっすぐ帰るのは怖い、人に会いたいし、ファミリーマートの中までは入ってこないかもしれない。

で、ファミリーマート。店員さんもいるし、お客さんもいる。安心。
多分、深夜1人で帰るのが怖いから同じ方向に歩く僕の後ろを歩いているだけだったんだろうと自分を納得させることにして、コカコーラを買って帰ることにした。コンビニに入って何も買わないのは、ありえない。
入り口から左、雑誌コーナー奥の飲み物コーナーでコカコーラを手に取ってレジに向かう。
レジに着いて会計中、自動ドアが開く。ファミマの自動ドアの音の後に聞こえる、鈴の音。

そこで僕は彼女の姿を目にする。
黄色い帽子にピンクのスカート、目があったはずなのに顔が真っ黒で見えなかった。
コカコーラを受け取って猛ダッシュ。
このまま帰るのは怖いから、昔友人が住んでいたマンションの塀の下に隠れて10分。
鈴の音は、聞こえない。

もう大丈夫そうだから、もう帰ろう。



河上 尚哉

ねじ7

 

 もう半年くらい前の話だろうか。行きつけの居酒屋のカウンター席で一人、ぼんやりとチューハイを飲んでいた。入り口に一番近いその席の前にはレジがある。レジの背後には二階席へつながる階段がある。焼き場を切り盛りする大将と軽い雑談をしたり、二階から会計に降りてくる人々の様子をなんとなく観察したりしながらボーっとできるので、店内の隅っこにあるその席は僕のお気に入りだった。

 焼き場の大将は僕の顔を見ると「今日は鯵がいいぞ」とか「サンマだな、今日は」などと焼き魚をオススメしてくれるので、その晩はカマスの開きをチビチビと箸でつついていた。そのうちに、二階から降りてくる男二~三人の話し声と荒っぽい足音が聞こえてきた。かなり酔っているようだ。階段はドタバタと千鳥足のリズムを鳴らしている。先に降りてきた一人がレジで会計をしているのが横目で見えた。と、次の瞬間。

 「ゴロゴロゴロっ!ドスッ」と大きな音がした。とっさに顔を上げたら、カマスの開きが空中をクルクルと舞っているのが見えた。カマスはスローモーションで何回か回った後に、 べちゃっと情けない音を立てて床に落ちた。カマスが落ちた隣には、太ったおじさんと割れたジョッキとチューハイの氷が散らばっていた。あまりに一瞬のことでよく分からなかったが、どうやら泥酔したおじさんが前のめりに階段から落ちてきて僕のテーブル上をひっくり返したらしい。騒然とする店内。幸いおじさんは無事らしく、すぐに立ち上がり慌てふためきながら逃げるように店を出ていった。連れの客が「すみません、ホントすみません!」と平謝りしながら大将に1000円札を一枚渡し、これまた脱兎のごとく店を飛び出していった。1000円。僕のチューハイとカマスの弁償金という意味らしい。

 ホールの女の子がほうきとちりとりで魚の残骸と割れたジョッキを集め始めると、なんとなく店全体が我を取り戻した。大将は「大丈夫だった?洋服とか濡れてない?なんだよ、あの客。あんなに酔っぱらいやがって、一番嫌いだよ、あーゆーの!」と怒っていたし、僕の隣にいたカウンター客は「ほんとだよ、あれで1000円とか(弁償金としては)桁が違うっしょ!」と同調してくれた。彼らの怒りとは裏腹に平然と落ち着いている僕の表情を見て、隣の客は「怒らないんですか?心、広いっすね…」と話しかけてきたので「いや、僕は別に(服も汚れていないし)大丈夫なんですけど、なんかカマスが可哀そうで」と答えたところ「そっか…、魚が可哀そうか…。その視点はなかったなぁ…」としきりに感心していた。そのあとも、隣客はしばらくの間「魚が可哀そうか…なるほど…」と、ブツブツ言いながらホッピーを飲んでいた。

 魚が可哀そう。とっさに出た言葉だったので、僕が何を感じていたのかは自分でも分からないけれど、たしかにあの時、スローモーションで回転するカマスと僕は目が合った気がする。まだ体の1/4しか食べてもらっていないのに、宙を舞う俺。そんな末路のために俺は釣られたわけじゃない。カマスの瞳は濡れていた。僕は賠償金の1000円でチューハイのお代わりを頼み、カマスの代わりに運ばれてきたブロッコリーのガーリックマリネを食べた。帰り道もなんとなく、頭の中ではさっきのカマスがクルクルと回り続けていた。





鶴田 啓

ねじ6

 

 先日、劇場で映画「フレンチ・ディスパッチ」を観た。米国新聞社の支社として、国際問題からアート、グルメまでを幅広く取り扱うフランスの雑誌「フレンチ・ディスパッチ」の編集部に所属する個性豊かな人々とその数奇な運命を描く物語である。ただし「フレンチ・ディスパッチ」誌そのものや登場人物、編集部があるとされる街はすべて、この映画のために用意された架空のものである。つまりおとぎ話。しかし、そこは稀代のストーリーテラー、ウェス・アンダーソン。めくるめくファンタジーの世界に、徹底的にキャラ付けされた登場人物の性格や主義やファッション、細部まで緻密に描きこまれた背景と街並み、あらゆる角度から執拗なまでに鍛え上げられた時代考証…諸々をタペストリーのように重層的に織り込むことで、見事なまでに血肉の通った極彩色の一大絵巻を展開してみせた。加えて、映画ファンにはたまらない(というか、ほとんど信じられないような)豪華キャストがメインからチョイ役までを固めているので、ほんのワンシーンを切り取ったとしても、そこから発せられる熱量と情報量が尋常ではない。わずか2秒しか流れないようなワンカットのためにも、一切妥協のない圧倒的な画図作りをしてみせる。更には、クセのある文体の字幕。英語圏外の人にとって、それは鑑賞と読解を同時進行でこなさなければならないスピード作業。巨大スクリーンで観るとなると尚更、映像vs字幕という2つに分断された視界が鑑賞者を一層忙しくさせる。それはまるで、食材も下ごしらえも火入れもソースも仕上げも完璧なメインディッシュがトータル9品でてくるようなコース料理。箸休めにアニメーションが差し込まれる場面もあったが…これまたクリエイティブの塊だったりして。それって、観ていて疲れないの?

 答えは「疲れない」。膨大な熱量と情報量と物語性が、不思議と鑑賞者にもすんなりと入ってくる。大まかに三部構成となったそれぞれのストーリーを「フレンチ・ディスパッチ」編集部が抱える三人の曲者ライターそれぞれの語り口で展開するため、飽きることなく全編を観終えることができたのだ。映画館を後にしながら、下敷きになったテーマ性やモチーフとなった古典映画のことを考えて余韻に浸る、という後味付きのフルコース。監督と脚本を同時に担うウェス・アンダーソンならではの、見事な物語運びだった。

 どんなに美味い料理も食べさせ方を間違うと、早晩、飽食状態で不味くなる。三人の編集者にそれぞれ異なる味付けで料理を運ばせたウェス・アンダーソン料理長の手腕に感服、といったところか。奇しくもMANHOLEの店舗運営やブログの更新、商品の買い付けや企画も現在は三人で行っている。店を後にしながら、お客さんが「なんかよく分かんない濃厚な時間だったけど、美味かったな。また行こう」と思ってもらえるような後味を残したいものである。別注品やエクスクルーシブや豪華キャストそのものは、もはや茶飯事の時代。つまりは、やはり届け方の話である。





鶴田 啓

ねじ5



 自宅で映画「空白」を観た。昨年(2021)話題になっていた作品なので、ご覧になった方も多いことだろう。(ネタバレにならない程度に)未見の方へ向けて、ざっとあらすじを引用すると以下のような感じ。

「万引き未遂事件を起こして逃走した女子中学生の交通事故死をきっかけに、彼女の身の潔白を証明しようと、スーパーマーケットの店長をはじめとした関係者を相手取った父親の暴走を描く」(Wikipediaより)

 父親役を演じた古田新太の凶暴な演技が公開当初から絶賛されていたが、個人的には寺島しのぶの絶妙な気持ち悪さ(誉め言葉)と存在感が全編通して際立っていたように思う。鑑賞後は「こんな展開は、ツラすぎる」という後味だけが残ったが、この映画にはモチーフになった実在の事件があるという点も、なおさら僕をやりきれない気持ちにさせた。この手の映画で分かりやすい悪役として設定されがちな「マスコミ関係者」を除いて、登場人物の中に根っからの悪人は誰一人存在しないはずなのに、致命的な自己否定を回避しようと全員が少しずつ小さな嘘やごまかしや責任転嫁を重ねていった結果、連鎖が連鎖を呼び、それぞれが後戻り不能の泥沼に堕ちていく…。やり場のない怒りや悲しみや絶望を前にして、人はどのようにそれらの感情と折り合いをつけて生きていくのか?というテーマに対してラストシーンのカタルシスはほとんど感じられず、同じ頃に本作を鑑賞した中台と、店のカウンター周りで「どーなのよ?あれ、あの展開」と話しながら、ふたりで軽く落ち込んだ。

 せめて、ここでは「空白」というタイトルについて考えてみよう。この映画では事件に関わった人間たちの行動について、原因と結果をつなぐはずのパズルのピースが幾つか欠け落ちてしまっている。 要所要所で「本人しか知りえない事実」が語られないまま、ベールに包まれているのだ。密室の中で何が行われたのか?誰が決定的な嘘をついているのか?それらが明らかにされないまま、物語は進みエンドロールが流れる。鑑賞者は穴だらけのパズルを完成形として受け取る。未完成のパズルを前にして、想像力を駆使しながらピースが欠けたままの「空白」を埋め、自分の感情に折り合いをつけるほかない。しかし、それは映画鑑賞に限った話でもないのだ。

 現実世界の中でも、人と人はお互いの「空白」を知らないままで共に生き続けなければならない。だからこそ、同じ景色を一瞬でも共有できることはかけがえがない。この父親にとって、娘と共に過ごした十数年は「空白」そのものであったに違いない。だからこそ、娘の視界に自分の姿がたしかに映っていたと知ったとき、父親の驚きはどれほどのものであっただろうか。大空と大海原の間にぽつりと浮かぶ一隻の船。これから先、幾度となく絶望や後悔が押し寄せてこようとも、それでも生きていくしかない父親にとって、その小さなピースは「空白」の中で唯一掴むことができた娘の実在そのものだった。

 


鶴田 啓

ねじ4



  MANHOLE店内の片隅には写真家・高橋恭司の最新作「Midnight Call」がひっそりと積んである。僕が氏の写真に初めて触れたのは1990年代の「Purple」だったと思う。エレン・フライスの自由な編集方針が生み出したこのマガジンからは、きらきらに浮かれたファッションムードや、(逆に)それに対しての分かりやすいアンチテーゼを感じ取ることはほとんどなかった。高橋恭司のほかにアンダース・エドストロームやマーク・ボスウィックら、当時の非・ファッションフォトグラファーが多く携わった「Purple」の誌面には、ある時は鑑賞者を冷徹に突き放すような態度で市井の人々や風景を独特の色彩で切り取ったような写真が多かったように記憶している。

 1990年代。1978年生まれの僕が少年時代の最後を過ごしたこのディケイドは、暗く冷たく、どこかドライな質感がのっぺりと張り付いたような季節であったと思える。1990年代の前半に起こったバブルの崩壊。当時中学生だった僕はバルセロナ五輪のバスケットコートで繰り広げられるドリームチームの活躍に胸を躍らせていたけれど、1994年には世界を制したシアトル出身のロックスターがショウビズの現実から逃避行を続けた末、自ら死を選んだ。僕が音楽に夢中になり始めた1995~97年ごろにリリースされたアルバムには、当然のようにカート・コバーンの影がチラついていた。闇を振り払うかのように無理矢理明るく振舞った者、反射的にその悲しみを抑え込もうとした者、逆らうことなく「だよね、わたしもツラいよ」という共感を携えて鎮魂を捧げた者…。その後も時代のムードとともに景気は沈み続け、僕が大学を卒業しようとする頃には、日本中の学生が大規模な就職難に見舞われていた。1992年に創刊された「Purple」の世界観の一端を担っていたマルタン・マルジェラというデザイナーは、そんな時代のムードをはっきりと捉え、世の中のオルタナティブでありたいと願っていた少数派の若者達の心をがっちりと掴んでいたし、僕ももれなくその若者のうちの一人であった。彼が好んだ非・ファッション的な色(色褪せた黒やベージュっぽいグレー、荒っぽくフェイドしたブルー)は、今ではむしろニュートラルな色として平穏なファッションを好む人々のテーマカラーになりつつある。

 そして2020年、COVID-19により世界はきれぎれに分断され、人々は移動や輸送の制限を余儀なくされた。グローバリズムに陰りが見え始めた世界は再び縮小し始めたかのようだ。非・ファッション的であることがノーマルであるかのように語られるこの時代に、パンデミック直前のパリを訪れた高橋恭司のカメラは果たしてどのような色を捉えていたのか。Instagramを思わせる画角で切り取られた新作のみが200ページ超のボリュームで綴られた本作は、深夜に旧友から突然かかってきた電話のように僕自身がいる現在の座標を静かに告げてくる。


 


鶴田 啓

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