池袋、いつもの居酒屋でカウンターに座る。
ふたつ隣に座る中年の客がホールスタッフを呼び止める。「きんぴらありますか?」と尋ねられたアジア系外国人留学生は新入りらしい。おもむろにホワイトボードを見やると、彼は「ナイデス」と答えた。お客は「じゃあ、谷中ショウガをひとつ…」と言いかけた。
横で聞いていた僕は「いや。きんぴら、あるでしょ」と思う。新入りが見上げたホワイトボードは本日のおすすめメニュー。手書きのペン文字で「菜の花おひたし」や「特大がんも」「ホタルイカの酢味噌和え」など、その季節ごとのメニューや本日入荷の魚がリストアップされている。一方で、カウンター前にはグランドメニューが設置してあり、そこには定番のおつまみからドリンク類までが書いてある。「もつ煮込み」や「マカロニサラダ」と並んで「きんぴらごぼう」はこの店の定番メニューだ。「きんぴら、あるよ」と僕が横から口出ししようかと迷っているうちに、カウンター内の藤田さんとフロアリーダーのミスタがすかさず「きんぴらあるよー--」と異口同音、お客に声をかけていた。それぞれが自分の仕事に手を動かしながらも新入りの会話や動きを間接視野できっちり見ている、聞いている。無事、「きんぴら」にありつけた中年客を横目で見ながら「いいチームだ」と僕は思った。
後日、同じ店のカウンターに座る。留学生スタッフの姿も見えた。いつもどおりにチューハイを飲んでいると、周りの会話が耳に飛び込んでくる。留学生スタッフがオーダーを通す。「ちゅくね、たれ、イッチョ―!」
経験上、外国人の中には日本語の「つ」がうまく発音できない人がいることは知っていたけれど、彼もどうやらその一人のようだ。それにしても「ちゅくね」は可愛い。十分、伝わるだろう。
しかし、問題はその後にやってきた。「ガツ、たれ、ハツ、しろ、レバ、しろ、一本ずつー!」
この店でホールスタッフは「肉の種類、味付け」の順番で単語を並べて大声で叫び、焼き場の藤田さんにオーダーを通す。おそらく、彼がオーダーしたかったのは「ガツのたれ」「ハツの塩」「レバーの塩」一本づつのはず。しかし「しお」がうまく言えずに「しろ」となってしまっている。これでは「ガツ」と「はつ」と「レバー」と「シロ二本」が通ってしまう。やべぇ、間違いに気づくと藤田さんがキレる。そう思うと気が気じゃなくなり、あのおじさんが頼んだ注文は果たして無事なのか?心配のあまり、チューハイを飲むピッチが上がる。藤田さんは黙々と何かを焼き始めた。
しかし、五分後。おじさんのところへ運ばれていく皿を思わず横目で覗き見たところ、そこには無事に「ガツたれ、ハツ塩、レバー塩」が鎮座していた。さすが藤田さん。ちゃんと予測している。僕は思わず「お前の失敗なんて計算のうちに入っている」と言い合う桜木花道と流川楓のことを思った。やはり、いいチームだ。周りはちゃんと見守ってくれている。大きく羽ばたけ、少年。
ちなみに、この店の焼きとんメニュー表には以下のように書いてある。
シロ(腸)・・・本来は「ヒロ」ですが、江戸っ子は「ひ」を「し」と呼ぶことから「シロ」に。
ほら、なまりなんて計算のうちに入ってるって。
鶴田 啓
食券制の居酒屋にて。
コの字型カウンターで隣の席に一組のカップルが座ってきた。横目で見る限り、ふたりとも黒ずくめの格好、20代半ば?鼻声の女が猫なで声の男に「ドリンク何にする~?チューハイ5杯券にしよっかなー。絶対5杯券のほうが安いよー。」と話しかけている。隣の席でチューハイを飲んでいる僕は「当たり前だよ、5杯券の方が単品よりも割高になる店など存在しない」と心の中で呟く。聞くつもりはないのだけれど、声がでかいので自然と耳に入ってくる会話だ。この店では単品250円のチューハイが、3枚綴り以上のチケットで買うと1杯あたり200円になる。鼻声の女は券売機から出てきたチケットを両手で数えながら「ていうか、ここのシステムめっちゃ分かりづらいんだけどー」「なんかここのテーブルめっちゃベタつく~、めっちゃサイアク~」などと、25年前のギャルのような口調で文句ばかり言っている。食券制はむしろ明朗会計、分かりやすいことこの上ない。食券を買って、注文カウンターに置いておくとホールスタッフがフードやドリンクをテーブルまで持ってきてくれる。帰るときは自分が使ったグラスや皿を返却カウンターへ片付ける。セルフサービスを活用し、スタッフは最小限の人数。だからチューハイが1杯200円で提供できる。じつに分かりやすいし実にシンプルだ。もっと言うならば、テーブルがベタつくのはいかにもベタつきそうな店に自分たちが来ているのだからベタついて当然だし、そもそもお前はこの店がピカピカに清潔だと思いながら入ってきたのか?どー見ても、入り口の時点で汚ねーだろ。などと、彼女の言動に対する突っ込みが頭の中から溢れ出して止まらない。
注文カウンターにチケットを提出しに行くのは、暗黙のうちに猫なで声の役割になっている。その都度の料理/ドリンクオーダーを済ませて席に戻ってくる猫なで声に対して、携帯をイジる手元から視線を1ミリも外さないままで鼻声は機械的な発声で「ありがと~」と言っている。 その後も猫なで声はフードを取り分けたり醬油を取ってあげたりと、献身的に働いている様子。
しばらくするうちに鼻声は「ていうかもうすぐ12時なんだけど~、まだチューハイ券3枚も残っているのに~」という間接的なセリフで猫なで声を急かし、券売機の前でソフトドリンクのカルピスを選ぼうとした猫なで声の彼に向かって「え、なんでお酒にしないのー?」と抗議した。猫なで声は「いや…一旦(ノンアルで)」と柔らかく答えたが、鼻声はそれを「じゃあ、次は緑茶ハイね」と言って即座にねじ伏せつつ、自分のチューハイを飲みながら「なんか、ここのチューハイ、味しないんだけどー」と言った。かなりの酒豪なのか、それとも彼女の鼻が詰まっているだけなのか、鼻声は酒の味を感知できないらしい。実際のところ、ここのチューハイ類は基本的に濃い。
「なんか、わたし今日めっちゃ酔いたい気分なんだ~」と鼻声の声が聞こえる。二人の関係がいったいどういうものなのか分からないが、猫なで声は割りばしの包み紙を畳んだり広げたりの手ままごとを繰り返しながら、鼻声の声が聞こえないふりをしているように見えた。いよいよ時計は12時を回り、このカップルが終電を逃したら一体どんな感じになるのか、ことの顛末を最後まで見届けたい気もしたが、そんなことをしても僕までタクシー利用になってしまうだけなので目の前にある3杯目のチューハイをグイっと飲み干し、席を立つことにした。鼻声は「なんか、この緑茶ハイ、うすい~」としつこく言っていた。黒づくめカップルの後ろを抜けて、食器を片付けた僕が自動ドアを出るころ、背後からは「ていうか。わたしの味覚がオカシイ?」という鼻声が聞こえてきた。僕は後ろを振り返らずに、家路を急ぐ人込みの中へ向かって歩いた。
嗚呼、大都会。果てしない。
鶴田 啓
池袋。いつもの店。夏の終わりが見えてきた盆明け、平日の16時頃。
入り口付近のカウンターに座ってチューハイを飲んでいると、70代後半くらいの爺さんがのれんをくぐって入店。常連客らしい。爺さんに気づいた藤田さんが「おー-、〇〇さん久しぶりー。でも今日はレバレアできないんだよー」と声をかける。「レバレア」とは「やきとんのレバーをレア焼き」の意味で、仕入れのタイミングや素材の鮮度によっては提供できないオーダーだ。いいよいいよ、しかたない。と言いながら爺さんは僕の二つ隣の席に座った。自動的に生ビールが運ばれてくる。「レバレアと生ビール」が爺さんにとってのいつもどおり、ということらしい。
焼き場担当の藤田さんが「〇〇さん、(レバレアは出せないんだけど)焼き物はどうする?」と尋ねると、爺さんは「とりあえず、かんぱち刺し」と答えた。しばらくして再び「焼き物どうする?」と藤田さん。藤田さんは焼きたくて仕方ない。「あぁ、うん」と爺さん。ベトナム人のホールスタッフ・ミスタが横から「まだ考えてるところダヨ(だから、催促しないであげて)」とさりげなく助け船を出す。彼女はいつも気が利く。しかし藤田さんは「気分変えてほっけでも焼くか?レバレア以外は魚しか食わねーんだし、いつも」と続け、爺さんは「まぁ、ちょっと待ちなよ、刺身頼んだから」と返す。
藤「それか、厚揚げでも焼くかい?」
爺「あー、厚揚げねぇ…(と言いながらビールを飲む爺さん)」
藤「厚揚げにするかい?」
ミ「まだ考えてるところダヨ」
爺「慌てなくても(そのうちに)頼むよ、いま考えてる」
藤「残された時間、少ないんだろ?」
笑いながら発せられた藤田さんの優しいブラックジョークに、僕はこの爺さんの余命がどれほどのものなのか気になってしまい、チラリと横目で顔を見た。まぁ、なんというか、のんびりとした表情でジョッキをゆっくりと傾けている爺さんの横顔が見えた。病気かもしれないし、病気じゃないかもしれない。しかし、この酒場に漂うおおらかな空気感。冗談が冗談として機能している。
一瞬、坂本慎太郎の歌が頭をよぎる。
僕には時間がない。
君には時間がある。
毎日が昨日とは違う新しい一日。そんな感じに聴こえるこの歌が僕は大好きだ。しかし、いざ本当に時間が無くなってしまったとき、果たして自分は残された時間をどのように過ごすだろうか?目的のもの(レバレア)が手に入らなかったとして、代わりの品を血眼で探したりすることのないおおらかな人たちの周りにだけ流れる穏やかな空気に包まれながら生きていくのも悪くないような気がした。だからこそ、笑って言えるような気がする。
そうだ、今日会おうよ。
って。
鶴田 啓
昔から記憶について考える。
10歳の時に暗記したと思われる古典落語「寿限無」の長い長いフルネームや、11歳のときに読んだビクトル・ユーゴーの(というかレ・ミセラブルの、ジャン・バルジャンの墓に刻まれた)四行詩は30年以上経っても何故だかいまだに覚えていたりする、それ。 記憶。
(映画エターナルサンシャインでもそうだったけれど)困ったら消せばよい、というほど単純なものではないし、クリスチャン・ボルタンスキーも塩田千春もゲルハルト・リヒターも、もはやアフリカのマスクも日本語も(場合によっては何世代にも渡る長い年月をかけて)真っ白いキャンバスの上に絵の具を重ねて重ねて形作られるような、それ。記憶。一枚二枚三枚と、重ねられたレイヤーを剥がしていけば、結局根底にある色は同じだったりして。人が真っ白の上に重ねていく色は組み合わせに人それぞれの独自性があるだけで本質的にはそれほど変わらないような気がする。何か特定の出来事を記憶する瞬間、24色入り絵の具の中からどの色を選び、どの色と混ぜて、どのような筆致で重ねていくのか。あるいは、重ねていく途中で嫌になっちゃって真っ白に塗り潰してリセットしようと思っても下地にある積み重ねられた色のレイヤーまでは消し去ることができないので、結局のところ、人は記憶の上に記憶を乗せて続けているにすぎない。記憶の上に記憶を重ねる瞬間、乗せる色の選び方はその時々で自分が置かれている状況や状態によって大きく左右されると言っていい。レ・ミゼラブルの記憶にしたって、現在になって読み返してみればきっと11歳当時とは全く異なる色に感じるのだろうが、それはこの30年の間に僕の中で記憶に記憶を重ね続けてきた結果の意図せぬ改ざんだろう。
「あのとき○○で食べたあのラーメンの味」や「昔、抜群にカッコいいと思ったあの映画」が時間の経過とともに色褪せてしまっていることに気づく、という経験は誰にでもあると思う。それは「実際にその店の味自体が落ちてしまった」のかもしれないし、「年齢を重ねるにしたがって自分の味覚が肥えた」ということもできる。状況や状態のマジックによって過去の記憶が美化されればされるほど、そのギャップは大きい。「なぜ、あの頃はこの味にこんなに美しい色を塗ってしまったのか」と不思議に思うこともあるだろう。過去の記憶は、遠くなればなるほどドラマチックに語られやすい。「若い頃は金がなかったから、毎日ここのラーメンを食っていた、美味かったんだよな~」という記憶も、実際には週二回のペースだったかもしれないし、もしかすると僕がレ・ミゼラブルを読んだのは12歳の頃だったかもしれない。
くるりの楽曲で「ばらの花」というタイトルのものがあるが、サビ部分の「ジンジャーエール買って飲んだ、こんな味だったっけな」というフレーズを指して、又吉直樹は「もはや自由律俳句だ」と言った。変わったのは自分自身なのか、それともジンジャーエールの方なのか。
記憶をその当時のままにパッケージするために百万言を尽くして綿密に記録しようとも、きっとそこには無意識のうちに「捏造」という肉が付いていくことだろうし、それが悪だとは決して思わない。意図する/しないに関わらず、すべての人には状況や状態があるから。
「分かりやすさ」が求められる今の時代に、余白のある最小限の言葉から最大限の想像を膨らませるという行為がどの程度必要とされるのか僕には分からないが、どっちみち記録ベースの記憶から当時のことを正確にトレースすることはなかなか難しいのだろう。評価・評論・分析などは一見すると「客観的な記録」だと思われがちだが、筆者本人の状態や状況を踏まえた「主観的な記憶の集積」だとわきまえながら受け入れる方が僕の性には合っている。実際に、このコラムそのものも「捏造された僕の記憶」の上に成り立っている、砂の城、もしくはジンジャーエールの泡みたいなものだと思う。
鶴田 啓
前回と同じ食券制の居酒屋にて。
例えば牛丼屋のように初めに一度発券するだけで完結する店ならまだしも、複数回の注文を繰り返しながら一時間以上は滞在する居酒屋において、おかわりのたびに席を離れて券売機の前に行きチケットを買い求める行為はどう考えてもめんどくさい。 その、めんどくささのおかげか(?)一度にまとめてドリンクチケットを複数枚購入するという術を僕は身に着けたことは前回にも書いた通り。それはそれ。ともかく、食券制に慣れてさえしまえば(人件費が安く抑えられているその分)24時間安く気軽に飲むことが出来るのだから仕方ない、と常々思っている。
そんなある日、いつもどおりチューハイのジョッキを傾けていたら、並びのカウンター席からお客同士の会話が聞こえた。「(店内奥の方を指さしながら)あっちの方に注文カウンターがあるから、そーそーそのチケットを…いや、そのチケットにテーブル番号を書いて、うん、テーブル番号は席の目の前に書いてあるから。そう、その赤いボールペンで、チケットに15番って書いて奥の注文カウンターに…」と、この店のシステムを丁寧に説明する常連らしき老人。その説明を受けているのはお一人様の若者で、手に数枚のチケットを持ったままで発券機の前に佇んでいた。どうやら初来店らしい。若者は無事に注文できたらしく、老人の近くに着席するのが見えた。
しばらくすると、ふたたび二人(というか主に老人)の声が聞こえてきた。「いや、いーいー。大丈夫大丈夫。要らないって。俺はもう帰るから」という内容からして、どうやら若者は「先ほどは親切に(注文の仕方を)教えてくれてありがとうございます」とお礼の意味を込めてドリンクチケットを一枚老人に渡そうとしたようだ。老人の方は「大丈夫、俺はもう帰るから」と若者のチケット譲渡を頑固に断り抜き、そのまま自分の席で飲み続けていた。
横でそれを観ていた僕は「なるほど、チケットにはそんな使い方もあったか」と思った。チューハイ一杯分のチケットならば250円。金額的にも大き過ぎないし、なにより現金を渡すような生々しさがない。実にスマートなやり方だ。その日のうちに使い切らなくても次回来た時に使うという手もある。バブル時代のショットバーで女性を口説くわけでもないので「あちらのお客様からです」と相手が頼んでもいないチューハイを店員に持って行かせるわけにもいかない。そもそも相手はお爺さんだし。食券制の店にはこんなメリットもあったか。
みたいなことを思いながら僕が飲んでいる間も老人は一向に席を立たない。その後も何度か老人は券売機の前に行き、チケットを買っていた。つまり老人は「俺はもう帰るから」と言い張ってカッコつけたわけだ。実に日本人らしい奥ゆかしさを感じる光景だった。
翌日の出勤中、銀座線に乗っていたら白髪のおばあさんが乗ってきたので席を譲った。「まぁまぁご親切にありがとうございます」と言って老女は席に座った。一分後、次の駅で僕が降りようとすると、おばあさんは席を立ち「本当にご親切にありがとうございます」と、こちらに向かって深々とおじぎをしているのが見えた。彼女も同じ駅で降りたようだ。もしかすると「次で降りるので大丈夫です」と僕が譲ろうとした席を断ることもできたのかもしれないが、公衆の面前で相手の申し出を断るよりもすんなりと受け入れた方がスマートだと思った可能性もある。
数年前、ベビーカーも抱っこ紐も持たず当時3歳の娘と出かけた時、帰り道に娘が寝てしまった。仕方なく抱っこしたままバスと電車を乗り継いで帰ったのだが、その間約一時間。およそ15㎏の幼児を両腕に抱え、吊り革にも掴まれない父親には誰も席を譲ってくれなかった。「マタニティマーク」や「白髪」「松葉杖」といった直接的なビジュアルよりも「子供を抱っこする父親」はヘルプサインとしては弱いのかもしれない。でもマジで重たいんだよ…。15㎏を一時間。いずれにしても、譲り合いは想像力。 たまにはスマホから視線をはずして、周りを見渡していたいなと思った。
鶴田 啓
僕が乗り換えに使う駅の前にはこのコラムに何度も登場しているいつもの店とは別に、24時間営業の居酒屋がある。その店は食券制で、退店時には食器類を返却カウンターに下げるというセルフサービスな居酒屋。(僕はやったことないけど)生ビールもサーバーからセルフサービスで注ぐシステムだ。人件費をかなりシビアに絞り込んでいるのだろう。メニューはどれも安価で、マズウマという感じ。僕はマズウマの中でも上位クラス(マズすぎない)メニューのみを注文しながら、利用時間帯が自在なこの店で軽く一杯ひとり飲みしたりする。
入店するとまず席を確保し、券売機で買ったチケットを注文カウンターに提出すると外国人のホールスタッフが席までドリンクとおつまみを運んでくれるこの居酒屋。安価な店なので文句は言えないのだけれど、飲んでいる最中に席を立ち、券売機でチケットを買い求め、いちいちカウンターへ提出しにいく動きはどうにもメンドクサイ。最初の一杯なんて五分もあれば飲み干してしまうので、着席後すぐに券売機まで行かなければならないのだ。ある時から僕は最初の発券時に「酎ハイ(プレーン)」というボタンを二回押して、ストック用もまとめ買いすることで席を立つ回数を減らすようになった。とはいえ、ジョッキの酎ハイ二杯などすぐに飲み終えてしまうため、二回目も二枚発券。二度の離席で四杯の酎ハイを頼む、というオペレーションが習慣化していった。
そんなある日。いつも通り「酎ハイ(プレーン)」のチケットを二枚注文カウンターに置いて着席していたところ、まずジョッキがふたつ届いた。それを飲み始めてすぐ、今度は外国人スタッフが「オマタセシマシター」と言って小ジョッキの「酎ハイ(プレーン)」を二つ持って僕のテーブルに来た。「あれ、違いますよ、これ。頼んでない」と僕が言うと、彼は「シツレイシマシタ」と言って小ジョッキを取り下げた。「別のテーブルの注文を誤って届けてしまったのかな」と思いながら引き続き飲んでいると、また先ほどの彼が今度は中ジョッキを二つ持って来た。「タイヘンシツレイイタシマシター」と言いながらプレーン酎ハイ二つを僕の前に差し出してくる。さっき、「違いますよ、これ」という僕の台詞を聞いて「サイズを間違えた」と思ったのだろうか。僕の本来のジョッキ二杯はとっくに届いている。一瞬「いや、だから頼んでないって」と言いかけたが「この酎ハイも処分するのだとしたら合計四杯も彼は廃棄することになる」と思い直して、黙って受け取ることにした。結果として僕のテーブルには四杯の中ジョッキが並ぶことになり、見た目で言うと完全なアル中状態である。期せずして、一度の発券で四杯の酎ハイを飲むことになった。
ふと「金の斧、銀の斧」というイソップ寓話を思い出した。「あなたが落としたのはこの金の斧ですか、それともこの銀の斧ですか?」と湖から突如現れた女神に尋ねられて「いえいえ、私が湖に落としたのはもっともっとショーも無くてザコい鉄の斧でゲス、へい」と正直に答えた木こりが「正直者のあなたには金と銀、両方の斧をどちらも差し上げましょう」と女神に褒められて、大いに儲かった。みたいな話だったと思う。ということは、もしかすると二回目の中ジョッキも「違います」と断っていれば、注文カウンターの奥から女神が出てきて「よろしい、正直者のあなたには酎ハイ(プレーン)小を二杯と酎ハイ(プレーン)中を二杯、合計四杯の酎ハイ(プレーン)をどちらも差し上げましょう」と展開し、合計六杯の酎ハイと女神に囲まれながら酒池肉林、よく見たら女神の頭には鉄の斧が刺さっていたりして。うわぁ、もう眉間のあたりまで食い込んでるよぉ、斧、血まみれ。女神笑ってる、こーわー-。と思ったところで目が覚めた。あー、やな夢見たな。やな夢見たことだし、気を取り直して「酎ハイ(プレーン)」でも飲もうか、と券売機に向かい「酎ハイ(プレーン)」ボタンを押したら「オマタセシマシター」って右手に金の斧、左手に銀の斧を持った外国人スタッフが僕の席までやってきて「あれ、違いますよ、これ。頼んでない」と断ったところ「正直者のあなたには、このマグロ切り落としと揚げ出し豆腐を差し上げましょう」って、いやこれどっちもこの店の下位メニューじゃん、マズいんだよなぁ。と思いながらテーブルに並んだ二品をじっと見つめているところでまた目が覚めた。沈み込むばかりでちっとも浮かび上がらない、インセプション、なんだよこれ何層目?いったい今、酎ハイ(プレーン) を何杯飲んだんだっけ、いや、まだ一杯も飲んでないのか。一度の発券で複数の飲み物を頼むと、なんだかよく分かんなくなっちゃうので、今度から酎ハイをおかわりするときには一杯ごとにレモンスライスを足してもらって、今何杯飲んだのかを数えることにしよう。
というパラレル。
鶴田 啓
つい昨日のこと。LINEで知人宛にメッセージを書いていて「きゃ」と入力した瞬間に予測変換(サジェストワード)候補で「キャサリン・ハムネット」という単語(というか呼称)が出てきた。今までに「キャサリン・ハムネット」の名前をLINEで変換したことなんてあったかな…。仮にあったとしても「・(なかぐろ)」なんかわざわざ使わないはずだ。もちろん、キャサリン・ハムネット女史は世界的なデザイナーだし、知名度が高いことも分かっているけれど。Lineの「きゃ」で出ます?普通。と、なんとなく予測変換のアルゴリズムが気になってしまい、メッセージ作成はそっちのけ、僕は色んなデザイナーの名前の前半部分を入力しながら予測変換候補の現れかたを見るというつまらない実験を仕事帰りの電車内で始めてしまった。
同じ英国人女性デザイナーとして真っ先に思いついたので、試しに「まーか」と入れてみたらすぐに「マーガレット・ハウエル」が出てきた。なるほど。ヴィヴィアン・ウエストウッドは「ヴィ」の時点では出てこず、「ヴィヴ」と入れたら出てきた。他、女性デザイナー部門ってことで「そに」と入力してみたら、アルファベットで「SONIA RYKIEL」が出てきた。「ヴィヴ」は対抗馬がほとんど存在しないとして、「きゃ」なんて幾らでも候補がありそうなものなのに「キャサリン・ハムネット」は「キャッツアイ」よりも上か。「SONIA RYKIEL」に至っては「SONY」より上だった。なぜだろう。
ちなみに「まるた」と入れてみたが「マルタン・マルジェラ」の名前は出てこず、代わりに「マルタイラーメン」「丸出し」「マルタ島」「丸大食品」「丸太町かわみち屋」など、僕が検索・入力をしたこともないような単語が続々と現れた。「かわみち屋」は京都にある和菓子屋だった。アントワープの恨みをなんとか晴らそうと「どり」を入れてみたが、案の定「ドリカム」や「努力家」「度量」「ドリフト」に押されて、期待の「ス・ヴァン・ノッテン」は姿を見せない。さらに「あんど」の場合、「&」「アンドロイド」などに加えて「安藤サクラ」「安藤美姫」「安藤優子」「安藤忠雄」といった安藤勢に押されまくり、果ては「アンドレス・イニエスタ・ルハン」という「通常はイニエスタな人」にまで負けて「アン・ドゥムルメステール」は沈黙したままだった。
こうしてみると、必ずしも僕の携帯自体(android)が一方的にファッションに毒されているわけではなさそうだが、だとしてもアルゴリズムの謎は深まるばかり。一時期、Google検索で「東京 天気」「東京 コロナ」を押しのけて「東京リベンジャーズ」が筆頭候補に挙がる時期があって、僕は「いや、知りたいのは天気だから」とイラついていたことを思い出した。裏で大きなお金や人海戦術が動いているのか。SEO戦略は今や当たり前なので、それが良いとか悪いなんてことは今さら思わない。その一方では「不自然すぎて逆に悪目立ちしてしまうパターンもあるんじゃないのかなぁ」と思ったりする。
MANHOLEはSEO戦略に対して意識的に取り組んできたわけでもないし、そもそも僕らは「不特定多数の人に割り込みで無理やり認知してもらうブランド」よりも「少数でも特定の人にふと顔を思い出してもらえるような店」でありたいと常々思っている。人は人、自分は自分ってことでいいのだ。世界中に広がる大海原になるためには勿論強い力が必要だろう。しかし「みんながたまに水汲みに来る井戸」みたいな存在も悪くない気がしている。
そうそう、Google検索で「CLASS 堀切」と堀切さんの名前を探すと、前職時代の僕が3年前に書いた「MANHOLEの河上くんとCLASSの堀切さん」というコラムがTOPに出てくる。戦略的に動かなくても、調べる人って意外といるんだな。山手線に揺られながら、何事も自然にやれるのが一番いいなと思った。
鶴田 啓
僕はエビ、カニなど甲殻類の食べ物が嫌いだ。厳密に言うと、味は好きなんだけど殻を剥くのがメンドクサイ。 寄せ鍋のエビや蟹汁のカニなど、汁に浸っている甲殻類があれば隣の人に「食べていいよ」と言って譲ってしまう。 逆に、 誰かが代わりに殻を剥いてくれたカニの身が目の前のボウルに山と盛られていたらエンドレスで食べ続けるだろう。同じ理由でカニちらしやエビフライは食べる。何かとてつもない贅沢を言っているような気になってきたが、ともかくこれはすべて「食べたい < メンドクサイ」という感情から派生するものだと思っていた。しかし。
この前、居酒屋で焼き魚(ホッケだったか、サバだったか)を食べていて、ふと思った。「焼き魚の身を骨からはずして食べることはメンドクサイと思っていないな、俺」と。むしろ「頭部や背骨についているわずかな身を執拗に探しながら綺麗に食べる」というチビチビした工程そのものを楽しんでいるようなフシさえある。あれ、なんでだろ?「食べたい > メンドクサイ」に逆転してるじゃん。疑問が湧き出す泉の所在を追求すべく、頭の中で甲殻類を食べるときの自分の動きと焼き魚を食べるときの自分の動きを映像化し、一連の流れを脳内でコマ送りと逆再生にかけながら検証してみた。右手に持ったチューハイのジョッキを傾けながら。
まず、焼き魚を食べるとき。背中側とお腹側では油の乗り具合が違うので、魚の種類によっては食べる順番をなんとなく考えながら(サンマの場合はハラワタを食べるタイミングなど)バランスを取り、骨から身をはずしていく。合間合間で頭部の周りにある眼肉やほほ肉などをほじったりもする。口に運ぶ。傍らに置いてあるチューハイを一口飲む。うまい。ボウルに盛られたカニの身を食べるとき。箸でおもむろに剥き身の塊をダイナミックにつまみ、口に運ぶ。傍らに置いてある白ワイン(場合によっては日本酒)を一口飲む。うまい。いまのところ、何ら問題ないようだ。甲殻類を剥きながら食べるとき。エビやカニの殻をはずしていく。カニ用のスプーンなどで身をほじくり出しながら口に運ぶ。うまい。傍らに置いてある…ハイ、ここで一時停止。
そこだ。
手に掴んだエビの尻尾、またはカニの殻。汁っぽい。びしょびしょだ。おしぼりで手を拭いてからじゃないと、グラスを持てない。僕がメンドクサイと感じている瞬間はそこにあった。おそらく、僕はつまみが喉を通ったその後、味の余韻があるうちに間髪を入れず酒を飲みたいのだ。そういった一連の流れの妨げになるステップとして「逐一、おしぼりで手を拭く」という行為を邪魔に感じている。つまり僕は甲殻類を剥いて食べるのが嫌いなわけではなく、手がびしょびしょになるのが嫌いなだけだった。世界の山ちゃんで、手羽先を積極的に食べない理由も同じだろう。
しかし多少乱暴な言い方をすれば、基本的に人類は皆めんどくさがり屋である。だからこそ、様々なことを効率化・スピードアップするため、あらゆる技術に革新を求めてきた。おかげで、今や大抵のことは携帯電話ひとつ、つまり掌の上で済ませられるようになった。ならば、僕の「メンドクサイ」の中にこそ活路がある。チャンス到来、一念発起。こうして僕はこの後、5年の歳月と1200万の資金をかけて「甘辛だれの手羽先に手を触れないで骨から肉をはずすことが出来る剣山状の食器」や「カニの殻をメキメキと潰しながら身だけを押し出して口に運ぶことが出来るハサミ」などの便利アイテムの開発に身を捧げるも、ちっとも需要がなくて没落、居酒屋のカウンターでカニカマを箸でつまみながら安チューハイのジョッキを傾けて「へへへ」と薄ら笑みを浮かべる斜陽の人生を送ることになるだろうとは、まだ知る由もなかった。
殻ぐらい、自分で剥け。
鶴田 啓
このコラムを定期連載するようになったからネタ探しをしている訳ではないのだけれど、僕は居酒屋でひとり飲みする時はついつい人間観察に耽ってしまうクセがある。観察とは言え、他の客をあからさまにジロジロと見つめるのは失礼なので、視線は目の前にある自分のジョッキグラスやメニュー表を貼り付けてあるカウンターの壁を見つめたままで聴覚は近隣の客に向けてなんとなく開いている状態。イヤホンを付けて動画を観たり音楽を聴いたりはせずに、ガヤガヤとした居酒屋の空気を浴びるようにキャッチしている。
先日、いつものように行きつけの居酒屋へ吸い込まれた夜の話。僕が通された席の二つ隣に座っていた酔客は大きな声でカウンター内にいる焼き場の大将・藤田さんと話していた。彼の方を横目でちらりと一瞥すると、その客は体にぴったりフィットしたポリエステル素材の黒いTシャツ、adidasの黒いトラックパンツ(スリム)、右腕にはROLEXの金時計という出で立ち。Tシャツの袖口からはかなりビルドアップされた太い腕が二本にょきりと生えている。日サロに通っているのか全身は小麦色、頭は3㎜以下のスキンヘッド。眼光は細く鋭く、声は野太い。40歳前後?いわゆる輩(やから)ルックの要素、ほとんどすべてを兼ね備えていた。
しかれども、この輩。店の常連客であるらしく(僕は初見)、藤田さんと話す口ぶりはごくごく親しげ。僕は彼との間に空席をひとつ挟んだ状態、50㎝の距離からなんとなく彼の挙動を間接視野でぼんやりと眺めながらチューハイのジョッキをあおっていた。ふと輩がホールスタッフの方に手を挙げて「チューハイ、おかわり」の合図。アジア系外国人スタッフが駆け寄り、空になったジョッキを受け取る。受け取ったスタッフに向けて「あ、ジョッキはそのままでいいからレモン(スライス)一枚足しておいて」と付け加えていた。ここのチューハイにはジョッキの中にレモンスライスが一枚放り込んであるのだが、「グラスそのままでレモン足しておいて」とは、もう少し酸味や香りが欲しいということか?などど考えている僕の横で、輩は藤田さんに向かって話し出した。「いやー、今の子、新入りでしょ?言っとかないと(俺のやり方が)分からないかなー、と思って」その後も彼は自分の流儀というか作法というか、いつものやり方について話し続けた。横で聞いていた僕が得た情報をまとめると、以下のような感じとなる。「チューハイにはレモンスライスが一枚入っている。二杯目をおかわりするときはジョッキはそのままで、中身と一緒にレモンスライスを一枚足してもらう。おかわりするたびに、レモンスライスを足す。そうすることで今、自分が何杯目のチューハイを飲んでいるのかを把握している。新入りのホールスタッフに頼むときは、その作法を自ら伝えるようにしている。ここのチューハイは濃いから(たしかに濃いのだ)四杯以上飲むと確実にベロベロになるので、そのようにして自己管理している」
以上のような内容を得意げに話し終えると、続けて輩はこう言った。「いやー、この前なんかさー、新入りの子(マレーシア人)が気を利かせて、おかわりにレモンスライスを二枚入れてくれたことがあってさー、俺、途中から自分が何杯目を飲んでるんだか分かんなくなっちゃってさー」僕は横でその会話を聞きながら「たしかに、レモンスライス足してと言われたら余計にサービスしたくなるのかも」と思った。そして、同時にこうも思った。「つーか、この店はカウンター席の目の前に自分卓の伝票が置いてあるんだから、杯数を数えたいなら伝票に書いてあるチューハイ×正の字を数えなよ」
この疑問を受けて、僕は二つの仮説を立ててみた。①この輩は伝票の存在には気付いているのだけれど、スタッフとコミュニケーションを取りたい寂しん坊であるが故に独自ルールの伝達を口実にして絡んでいる。②彼は大した常連ではない。事実、この店のカウンターに1000回以上座っている僕が彼を見たのはこの夜が初めてだった。常連なら普通、目の前の伝票に気付くでしょ。というか、チューハイの濃さに慣れろよ。
いずれにしても、僕はなんだかこの輩が可愛らしい存在に思えてきて、なんとなく左側にいる彼の方を見た。彼も僕の方を見ていた。お互いがなんとなく話しかけようかな、と思ったであろうその瞬間、0.005秒。ふたりの間にあった空席の丸椅子に「ご新規、一名様~!」のコールと共に、新たな男性客が腰かけて二人の視線は突如絶たれた。あの時、確かに輩はこちらに話しかけようとしていたし、口は「よく来るんですか?この店」というセリフの初めの母音「お」の形をしていた。これは、①確定だな。彼。
その後、二人は間に新規客を挟んだままで無言の時間を過ごし、しばらくすると輩は伝票を手に持って会計を済ませると、肩を丸めて店を出ていった。彼のジョッキの中にはレモンスライスが五枚散らばっていた。君の名前で僕を呼んで。
鶴田 啓
ある日、ぼんやりとテレビを見ていたら「勝俣州和はチャーハンの食べ方が独特だ」という話題で出演者たちが盛り上がっていた。まずニンジンだけを選り分けて食べ、次に玉ねぎだけを取り出して食べ、次にチャーシュー、次に卵、最後に米、という具合。つまり、一緒に炒め合わせられた具材を別々に分解して食べるクセがあるらしい。これはチャーハンに限ったことではなく、例えばサンドイッチの場合も同様で、パンと具材それぞれを個別に食べていくらしい。共演者からは「じゃあ、最初っから別々に炒めたものを小皿に分けた状態で運んできてもらえばいい」という声が当然のように上がっていたが、勝俣は「それじゃ意味ないんですよ。一緒に炒められた味じゃなくなってしまうから。一緒に炒め合わせられた状態からそれぞれを分けて食べるのが良いんです」と反論していた。酢豚程度の具材の大きさ/数ならばまだしも、いちいち米粒をバラしながらチャーハンを食べ進めていたら日が暮れてしまうし、そもそも美味しくないだろう。料理人だってきっと嫌な気持ちになる。「食べ方は客の自由」と言ってしまえばそれまでだが…。
客がどの順番で食べるかを提供する側がコントロールできる料理と言えば「コース料理」ということになる。寿司屋に行き「おまかせ」で握ってもらう場合なども含めて、食べてもらう順番を想定したうえで組み立てられたメニュー。
しかし、「コース料理」よりももっと身近なところに客が食べる順番を作り手が決定できる料理がある。焼き鳥をはじめとする「串もの」である。串刺しにされた素材を上から順番に食べていけば、必然的に作り手が決めた順番通りに食べることになる。まさか焼き鳥を根元から順に食べる人はいないだろう。
串刺しの順番に意思を感じる焼き鳥と言えば「ねぎま」だ。一般的には「もも肉・ねぎ・もも肉・ねぎ・もも肉」の順番で刺してある場合が多いように思う。ねぎともも肉を同時に口に入れるかどうかは客次第だが、いずれにしても「もも肉で始まり、もも肉で終わる」ことになる。そう思っていたのだが、ある時ふらりと入った居酒屋で「ねぎ・もも肉・もも肉・もも肉・ねぎ」という順番のねぎまに出会った。「ねぎで始まり、ねぎで終わる」パターンだ。そこで初めて、僕はねぎまの順番について考えることになった。それまで僕はなんとなく「ねぎま」は「ねぎ間」であり、もも肉の間にねぎが挟まれていることに由来していると思い込んでいた。しかし、実際には「ねぎま」の「ま」は「まぐろ」の「ま」であり、つまり本来は「ねぎま鍋」。まぐろとねぎを醤油味の出汁で煮ただけの庶民的な鍋料理がいつからか「まぐろとねぎの串刺し」に変わり、さらにまぐろよりも比較的安価な「もも肉とねぎの串刺し」に変化していったらしい。いつだったか、近所の居酒屋で「もも肉・もも肉・もも肉・もも肉・ねぎ」という順番で串打ちされた焼き鳥に出会い、その名前が「とりねぎ」だったことからも「間に挟んでないから、この店ではねぎまと名乗らないのだ」と、その確信を勝手に深めていたのだが…。もも肉で始まりねぎで終わる、その店独特の「とりねぎ」は一体なんだったのだろうか。
という、どうでもいい話。ねじのコラムはMANHOLEブログという「もも肉」に挟まれた「ねぎ」みたいな調子で書けたらいいな、なんてことをいつもぼんやりと思っている。もはや「ねじ」ではなく「ねぎ」の可能性まで出てきた。
ちなみに、僕は宴会の時に焼き鳥盛り合わせを(みんなが取り分けて食べやすいように気を利かせたつもりで)串から外して全部ばらばらにしてしまう人が嫌いだ。順番もへったくれも消え去る無情の世界。
鶴田 啓